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デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』

いわゆる「ビッグ・ヒストリー」について書かれた本はここ20年くらい日本でも海外でも人気のジャンルだ。ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、ピンカー『暴力の人類史』、ハラリ『サピエンス全史』などなど。私たちは自分が何者で、どこから来たのか、どのような歴史的転換をたどりいまの場所にたどりついたのか、そしてどこに向かっているのか、そのことを知りたいと思っている。だから本も売れる。新たな知見を求め、ひとつの大きな根拠を元にわかりやすいストーリーを描くことで現在地点を認識するために。

が、本書の執筆者であるデヴィッド・ウェングロウは言う「いま思い描いたことがすべて間違っていると想像してください」と、本書の基本的前提はこれだ。

『負債論』『ブルシット・ジョブ』等で知られる人類学者デヴィッド・グレーバーと、ロンドンで考古学を研究するデヴィッド・ウェングロウが足かけ10年にもおよぶ時間をかけ執筆した本書は、”万物”の”黎明”という大胆なタイトルを付け、これまで書かれたビッグ・ヒストリーを批判的に見直すことで、あらたな人類史を紡ごうとする。つまり、「未開」の文明をもつとされる人々の社会が、私たちが想像する以上に洗練され、豊かな構造でできているということを。

本書に結実した研究は、2010年ころからスタートしている。そしてそのはじまりは、基本的に「まじめな」学問的責任に対する軽い反抗心からはじまったようだ。アナーキーな人類学者として名をはせるグレーバーは、同じく”デヴィッド”の名を持つ考古学教授のウェングロウと手を組み知見を集めていく。この分野において過去30年間に蓄積されたあらたな考古学的証拠は、初期人類の歴史にかんする考え、とりわけ社会的不平等の起源にかんする議論とむすびついている。しかし、その膨大な知見を統合する作業はこれまでほとんど行われておらず、初期都市の概要や、各地における民主主義の始まりを比較する文献は不在に満ちていた。

なぜ統合への研究は進んでいないのだろう。

それは、元々の文献の少なさに起因するだけでなく、端的に適切な言語がないことが原因なのだと著者は言う。たとえば「トップダウンの統治機構をもたない都市」という言葉は、いまのところ一般的に受け入れられている言葉として私たちは持ちあわせていない。「民主政」や「共和政」という言葉に容易にあてはめられるようなものでもない。
日本語訳版で上下段700ページにわたる本書は、その「適切な言葉」を探るかのように密度濃く、あらゆる文献を駆使しながら、私たちがよく知る歴史を突き崩してゆく。
人間は最初から想像力があり、知的で、豊かな社会を形成する能力を持っていた、そんな生き物なのだと考えてみたら。そして、だとしたらなぜ、いまこうして束縛に満ちた思考と社会の中に囚われているのか、という問いとともに。

「ビッグ・ヒストリー」の本に対するカウンターとして登場した本書のアプローチはこうだ。社会的平等のイデオロギーが実際に存在したという証明ではなく・・・・、「平等」や「不平等」という言葉そのものを捨て去り、ある時代や場所で都市生活や奴隷制が拒絶されたことを、別の時代や場所で都市生活や奴隷制が出現したことと同等に重要なこととしてあつかうということ
そして、本書はこれまでの知見を統合しながら、あらたなに浮かび上がってきた事実を提示する。たとえば、「奴隷制は歴史上複数の場所で何度も廃絶されている可能性が高い」ということ。あるいは「戦争も同様に手段として放棄された文明があった」ということを。

しかしそれもまた、ひとつの「大きな物語」に集約してしまう言葉だ。本書は、言ってみれば「人類史はそんな簡単に要約できるものじゃない」と、根底にはそういった意識があるように思う。例えば「人類の本来の姿は自由と平等である」とか「虚構によって成り立っている」とか「暴力で覆われている」とか、そういったキャッチ―な結論が、どこまで自明で必然的なものなのかに疑問を投げかけ、この本もそういった要約させることを避けるかのように多角的に歴史を眺める。

まず、私たちがイメージする文明の流れ――狩猟採集民から農耕社会に進み、やがて国家が形成されるというモデルは、「ビッグ・ヒストリー」で見かける一般的なストーリーだ。しかしそれは西洋中心の文明観からもたらされるモデルに過ぎず、いまの社会にも通ずる「閉塞感」となっているのではないだろうか。
社会がより大きく「複雑」になるにつれ、自由が失われていくことは人間文明において決して自明のことではない。むしろその「こうあるべき」というストーリーは、主に先住民によって形成された理論と、批判の強靭さを無効化するために考案されたものといっていい。いまなお「西洋思想」といわれるものは、人類が社会を進歩させる過程で生み出した強力な概念であるかのように扱われるが、それはあきらかに事実と反している。なぜならヨーロッパの入植者と先住民とのあいだで交わされた対話において、未知の余所者に対面したアメリカ先住民は、ヨーロッパの諸制度に対して、おどろくほど一貫した独自の理論を徐々に展開していったという記録が残されているからだ。さらに、こうした批判はやがてヨーロッパ自身できわめて真剣に受け止められるようになったという。

また、フランス革命の理想である「自由・平等・友愛」は、当時の啓蒙思想家による長い論争と会話の過程でかたちづくられたものというのが現在の一般的に知られるヒストリーだ。著者は、こうした会話が啓蒙主義の歴史家たちが考えるよりもはるか昔から行われていたとうことだと主張する。
こうして、たとえば17世紀「西洋」の観察者たちこそ現代人の初期バージョンだと当然のようにみなしている考え方を、そしてアメリカ先住民については、本質的に異質で、未知の他者であるという考え方を、これまで見過ごされてきた人類史を紐解くことで瓦解させていく。そこから見えてくるのは、その頃の西洋の著述家たちは現代人と、ジェンダー観、倫理観、民衆の主権についての考え方等、似ても似つかない精神を持っており、アメリカ先住民の態度の方が、はるかに本書の読者に近い精神を持ち合わせているということだ。

要は、私たちがイメージとして持つピュアな、あるいは野蛮な「原初的」な人類という状態は存在しないのだ。著者たちは、あらかじめ答えを持っているなどとうそぶくことはせず、人類の過去の証拠に新鮮な目を向け、一歩一歩歴史と向き合ってゆく。

すなわち、「文明」とは、全体的な繁栄の拡大を保証すると同時に、自由と平等の領域で必須となるある程度の妥協を引き受ける、そのようなシステムである。本書の試みは、それとは別の種類の歴史を書くことにある。

『万物の黎明』P.86

個人的に特に興味深かったのは「官僚制」の起源について考察した章。名簿、台帳、会計処理、監督、監査、文書などのアーカイヴを保管するという意味での機能的行政管理の初期形態は、――たとえば、メソポタミアの神殿やエジプトの祖先崇拝、中国の神託の解読などにおいて生まれたようだ。つまり、官僚制は、人類社会がある「規模」と「複雑さ」の限界を超えたときにあらわれた上の管理の問題に対する実際的解決としてはじまったのではない・・ということが高い確度で言えるのだ。
であるならば、こうした技術がいつ、どこで、なんのために生まれたのかという問題が浮上してくることとなる。最近の考古学上におけるあらたな研究成果によると、専門的な行政管理システムは、実はきわめて小規模の共同体で生まれたようなのだ。なんと前6000年頃、都市らしきものが出現するよりも2000年以上も前から
一例として、「テル・サビ・アブヤド遺跡」では、この村の住民たちが国葬や倉庫などの中央貯蔵施設を造営しただけでなく、そこに貯蔵されたものを記録するために、ある程度複雑な管理装置を使用していたことがわかっている。これらの装置には、ウルクやのちのその他のメソポタミアの都市にある神殿の書庫のミニチュア版ともいえる、家政用書庫エコノミック・アーカイヴもふくまれていたという。

サウジアラビアやペルーの砂漠、カザフスタンの大草原、アマゾンの熱帯林などからは、この先もあたらしい科学技術を駆使して「失われた文明」が発見されることだろう。であるならば、その都度私たちも歴史の見方をアップデートしていかねばならない。すなわち、それらの「文明」に現代的国民国家のイメージを投影することに抗し、それらがひそかに語っている別の種類の社会的可能性を考察しなければならないのだ。

人類の歴史には、自由、民主主義、女性の権利が相対的に強かった過去があり、多くの世界史の記述者たちが、いささかの矛盾も感じることなく、その過去を依然として「暗黒時代」と断じている。
同様に、「文明」という概念は、いまだ主に、横暴なる独裁体制、帝国による征服、奴隷労働の使用などを特徴とする社会を指して持ち入られている。そのような事例にあてはまらない洗練された社会がかつて存在していたにもかかわらず――。

「よりよい問いを発しよう」という訴えがこの本の根底にはある。それは、仮に本書の問いが「不平等の起源を問う」ということであった場合、最終的な結論が「人類の本性として卑しむべき在り様に警鐘をならし、ささやかに手をくわえる」ことくらいだということがわかっているからだ。それとは異なる結論――つまり「不平等の起源など存在したなかったのではないか」ということこそが切実なる訴えとして本書を支えている。
人間は生まれつき凶暴な生き物であり、人類史とは始まりからいまに至るまで暴力に彩られている。であるならば「進歩」「文明」とは人間の競争を好む性質を動力としての救済となる。このようなストーリーはわかりやすく、特に億万長者からは非常に人気のある考え方だ。
だが、人類史をたどると、そういった楽観的説話には明白な欠点があることがわかってくる。それは、もしそのような西洋的な文明がそんなにいいものなら・・・・・・・・・・、なぜ自然と世界中に広がっていかなかったのかということだ。ヨーロッパの権力者たちが500年近くもかけて、頭に銃口を向けながら強制的に採用しなければいけなかったのかの説明がつかない。

つまり、あらゆる人間が、私たちが典型的に現代的なものとみなしているような高度に創造的な方法で考え行動する様式は、かつて歴史の中に実在していた。
が、それは私たちの直感に反してしまう。遠い過去の人々が、私たちが直面している不平等の問題を解決――問題とさえみなさないような洗練された社会を形成していたということは、まったく直感とは異なるがゆえに容易には受け入れられない。
「ビッグ・ヒストリー」の多くは、技術革新として農耕だったり馬だったり鉄だったり虚構こそが、人類の進歩においてブレイクスルーを起こしたと記述し、そこに至るまでの人間社会が取りうる形態を排除してしまう。テクノロジーが重要であることはいうまでもないが、それを過大に評価することで、抜け落ち、見過ごしている過去の社会があるのではないだろうか。

人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしら――そして現在の世界の状況を考えるならば、そうでないとみなすのはむずかしいのだが――、おそらくそのまちがいは、人々が異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときからはじまったのではないか。

『万物の黎明』P.569

私たちは本来もっと自由な社会を――例えばまったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来する自由があったのではないだろうか。しかしそういった自由は一般的に知られる「文明」が形成される過程で徐々に後退していき、現時点の私たちは自由に基盤を置く社会秩序がどのようなものかさえ知らない。
なぜそうなったのか? どうして閉塞してしまったのか? どれくらいのあいだ私たちは閉塞しているのか? 本書はこれらの問いを密度濃く、切実に、しかし遊び心を持って追究する。

なんて知見に満ちたおもしろい本なのだろう。ページをめくる度にそれまでの常識は覆され、慣れ親しんだ世界が一変する感覚を味わえる。示唆的であり、野心的。人間や社会にかんする常態化した在り様を問い直す非常に刺激的な本だった。ぶ厚くて重たい大書だが、文章はわかりやすく、仮に振り落とされそうになっても、訳者あとがきで各章ごとの要約が記載されているため、ここを確認すればついていけるはず。知らないことがいかに多いかを知る、そんな知識の泉にひたる読書だった。

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