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『瞳をとじて』立ち現れる映画の表象

「映画についての映画」。『ミツバチのささやき』にしても『エル・スール』にしても、ビクトル・エリセの作品は映画の中に映画というモチーフを置き、映画ならではの美しく強烈な体験を、あるいは風景を語ってきた。本作『瞳をとじて』もまた、ビクトル・エリセ本人の人生を反映し、映画を主題とすることで、老いについて、人生について、変わりつつある映画産業についてを物語っていく。

映画がはじまる。まさしく言葉通りの意味で。
『瞳をとじて』の前半部分はある種のミステリーだ。映画は始まると同時に1947年のパリにある邸宅が映される。邸の中に案内される男と、彼に失踪した娘の捜索を依頼をする男。ひと通りのシークエンスが終わると、いま見ていたものが『別れのまなざし』という映画であったことが判明する。
話は2012年に移り、この『別れのまなざし』が、制作の途中で主役であるフリオの失踪により、完成品を見ることが叶わない「幻の映画」となったこと、その作品にフォーカスしたドキュメンタリーを作るために監督であるミゲルが協力していることがわかってくる。

それらの状況は、例えば『別れのまなざし』に登場する男と、失踪したフリオを。あるいは現実の、つまり寡作で知られるビクトル・エリセの姿とも重なる。そのように重層的な階層で本作は観ることが可能なのだが、単体として観れば前半部分はミステリーっぽい状況から過去を追走していく物語となる。

「画」として切り取られたカットの精巧さ、光と影をたくみに操り美しい情景を生み出す作家性、それらは本作においても健在だ。
印象的なカットも多く、会話劇を中心として進行させていきながら、人物同士の関係性を光と影、まなざしや表情、カメラのフレームをどこに置くかなど、そういった映画としての在り方によって意味付け、強く焼き付けてくる。

特に前半の、『ミツバチのささやき』でアナを演じた女優アナ・トレントが画面に登場したときの異様な感動。会話によってそれぞれの顔を切り返しながら見せていくのだが、アナが父親であるフリオについて語るシーンでは一際その顔を、まなざしを大きく映し出し、ゆっくりと表情を見せることで印象深く「画」として残す。

また、ビクトル・エリセは少女を美しく可憐に撮ることに定評のある監督だが、同じくらいおっさんを渋く魅力的に撮る監督でもある。後者のその持ち味は本作において遺憾なく発揮されており、主人公ミゲル、その友人マックス、物語のカギを握るフリオなど、おっさん同士のやり取りと、個々の魅力がすばらしかった。

ミゲルがようやくフリオを見つけ、遠景から彼を撮ったショット。机を挟み対角線上に腰かけながらお互いがちらちらと目を合わせるショット。並んでベンチに腰かけ、写真を見せることで失われた記憶を取り戻そうとするショット。一緒に建物の壁にペンキを塗るショット。彼らの心の距離はショットによってこの上なく丁寧に説明されていく。そうして時間によって隔てられていた心の壁はおだやかに瓦解していくのだ。
しかしなお、フリオが記憶を取り戻すことは無い。

『ミツバチのささやき』『エル・スール』はスペイン内戦の傷跡を背景とした物語だった。そのため監督にとっての「過去への追想」という意味合いを持っており、そこで描かれていたことは、常に、過ぎ去りし日を夢見るような、郷愁の視点があったように思う。対して本作は、現代を舞台としており、これまでの作品を知っている側からすると、この時点でかなりびっくりさせられる。例えば宮崎駿が近未来SFを作ったらなかなかに衝撃的だと思うのだけど、本作から与えられる感触はそのようなものに近く、しかもまったく不具合を起こすことなく、ビクトル・エリセでしかありえないたたずまいの作品となっている。それがまず私には衝撃的だった。

『瞳をとじて』は記憶をめぐる物語であり、同時に老いについての物語だ。そして映画産業の「老い」をミゲルやフリオと重ね合わせることで、監督自身の抱えている意識を、割とストレートに訴えているように思える。

重層的な映画だ。観客によって多層な受け取り方を可能としている作品で、ビクトル・エリセについて、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』を視た人にとって、映画産業について、記憶や老いについて、多層にそのテーマを配置しながら、理路整然と、無理のないナチュラルな進行がなされている。

フリオの得意なダンスがタンゴだと知ったとき、私の心に思い浮かんだのは『エル・スール』において父親と娘がダンスする場面だったし、22年新作を撮っていないミゲルの姿はどうしたって監督本人と重ね合わせずにはいられない。「アナ」を見れば当然『ミツバチのささやき』のアナを髣髴とせざるを得ず、失踪した父親を探すというテーマや、撮られなかった作品の続きに想いを馳せるということ自体、『エル・スール』や、監督の頓挫した企画を反映しているように思える。仮にそう何かに当てはめて見なくても、話としては成立しているが、過去作や実人生と重ね合わずにはいられない、そんなたたずまいで本作は在る。人生において最も美しかったときの記憶を追想する登場人物たちの心情は、かつてビクトル・エリセの作品を観て感動した私の心とも重なるのだ。

そうして私たちの心に立ち現れる「表象」は、観ている観客それぞれのビクトル・エリセ映画とのかかわり方、あるいは映画そのものの記憶、もっと大きく広げてみるなら自身の「人生」や「老い」と呼応し、あなただけの、あなたの瞳の中にしかない表象として確かにそこに在ったことを実感する。

いやちょっとすごすぎる。観てる最中は純粋に感動していたのだけど、こうしてその階層なんかについて言葉としてまとめようとすると、要素が多くてびっくりする。なのに映画そのものの印象としてはいたってシンプルで、「旅の映画」くらいの気やすささえあるんだもん。
『ミツバチのささやき』のラストシーンにおいて「わたしはアナよ」と言って世界を見つめていたのとは対照的に、フリオと再会したアナは「わたしはアナよ」と同じ言葉をささやき目をとじる。そこに”聖霊”はいないのだ。そこで奇跡は起こらない。
では監督はこの映画に何を"託して"いるのだろう。
印象的なのは、「老い」とどう向き合うべきかというミゲルの問いに対してマックスが答えた台詞だ。

「恐れも希望も抱かないことだ」

この言葉は人生や老いについての言葉であると同時に、映画そのものについての監督の心情のようにも思える。
映画。切実な装置。
映画を観ることで私たちは影響を受ける。受けざるを得ない。その度合いは人それぞれではあるが、良くも悪くも・・・・・・何らかの恐れを、何らかの希望を観ることによって抱くこととなる。
その切実さ。この映画には「映画」という装置に囚われた側の切実な視点が強く感じられる。それは映画愛を表現するなんて生易しいものではなく、人生において映画という存在が不可分な域にまできてしまった者の悲哀とも歓びともつかない特別な切実さだ
つまりそれは、映画とここまで繋がらなかったあなたの人生、ありえたかもしれない可能性、何を得たのか以上に、”何を失い”ここまでたどり着いたのか、それを心の中で幻視してしまう悲しみだ。いや、この感情を「悲しみ」と名付けていいのかはわからない。人によってそれは歓びなのかもしれないし、孤独なのかもしれないし、絶望なのかもしれない。でも私には『ニュー・シネマ・パラダイス』のような、映画を愛し続けてきた人に対しての優しい祝福の映画という在り方よりも、この『瞳をとじて』という、それをある種の恐ろしいほど切実なものとして捉えるたたずまいにひどく胸打たれてしまう。しかも凄まじいことに、そういうことを描いておきながら、最終的にこの映画は、「それでも私は映画と共にある」ということを、肯定的にも否定的にもならず、ただ「そう在るべきもの」として私たちに伝えているのだ。

なんて圧倒的なラストシーンだろう。これほど胸打たれる映画の閉じ方がかつてあっただろうか。”それ”を見つめる私もまた、映画を観ることで彼らと同様の映画の歓びを、恐ろしさを、絶望を感じ、眩暈がするほどだ。
映画的。このくらくらする感覚は劇場でしか体験しえない映画的な感動だ。はじめに言った通り、ビクトル・エリセという監督は「映画についての映画」を撮ってきた人だった。そしてこのラストシーンでは、映画の登場人物と己を重ねざるを得ない場面を現出させ、映画でしかありえない凄みと感動と切実さが同居している。

『瞳をとじて』。表象として立ち現れる映画についての映画。そしてそんな表象の風景が浮かんできてしまうほど、不可分な域にまで映画と繋がった者の物語。映画とともに生きることの切実さが胸に去来し、切り離すことができない存在が自分の中にあるという、歓びとも恐れとも悲しみともつかない異様な感情を知り、そのことに打ちのめされる。自身と映画の関係性に想いを馳せることで、言いようのない感動につつまれ、あふれる涙を止めることができなかった。




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