近世百物語・第八十八夜「祝詞」
子供の頃から〈祝詞〉をあげて育ちました。それは播磨陰陽道の伝承者として当然のことでした。だから、少しも不思議には思っていませんでした。と言うより、
——他の人も、みんな祝詞を知っているものだ。
と、勝手に思い込んでいました。
子供の頃の思い込みは誰にでもあります。それが奇妙であろうとなかろうと、自分の中ではごく自然なことでした。
さて、時と場合によって、祝詞をあげると雨が降ることがあります。ある時は祝詞の直後にどしゃ降りになりました。これは、友人たちと神社へ行った時も何度か起こっているので、多くの人が体験していることです。
また、小雨程度のパラパラした雨が降ることもあります。
これは、
——そこに祭られている神が返事をする。
と言われる現象です。ですが、まったく降らないこともあります。と言うより、かえって晴れてしまうこともあります。雨は雨雲が近くにある時に落ちて来るようです。それはそうですが、祝詞はただのキッカケにすぎません。そのタイミングで偶然に雨が降るだけなのかも知れません。しかし、祝詞の音の波は雨の降る時の音に似ているようです。
これは播磨陰陽道の説明として祖母が、
「太古の人々の言葉は、より自然に近い音を言葉として使っていたんじゃ。たとえば雨が降る時の音を口から出してみたり、たとえば、獣や鳥たちの声を口から出したりしていたようじゃ」
と言っていました。
そして、
「それらの原始的な音を組み合わせて神に祈ったのが、この祝詞と呼ばれるものじゃ」
と言っていました。ですので、播磨陰陽道には一般に知られていない古語の祝詞があります。それはアイヌ語のような、さもなくば琉球地方の古い言葉に似た感じがします。
通常の祓詞の他に大祓祝詞等もあります。古語の祝詞はテクニック的に伝えるのが難しいので、セミナーとかの時に少し伝えるだけです。特に古語の大祓祝詞は色々な意味で様々な出来事が置きやすいものです。ですので、近くで見ていられる場合を除いては、何か起きても対応が出来ません。古い祝詞の中には動物を操る種類のものがあったようです。これは祝詞と言うより〈祭文〉と呼ばれています。
祭文は、
「宣る」
で終わらない種類の短い祝詞です。
私は信じていませんが、祖母は、
「鯨を呼び操る種類の祭文があって、それを使うと鯨の上に乗ることが出来た」
と言っていました。何でもそれで大昔に海を渡って、遠くヨーロッパやアフリカ大陸まで行けたそうです。それはまだ、われわれの先祖以外が原始人だった頃の話のようです。実際、いくつかの祭文を使って鯨を呼べた人もいますので、もしかすると太古にはそんな祭文があったのかも知れません。
祝詞をあげると雲は確実に変化するようです。宗像神社の沖の島で祝詞をあげた時、鳥居の上で雲が縦に渦を巻いたことがありました。その雲はまるで竜か何かの顔のような感じでした。これは、いつでもそんな現象が起きる訳ではありませんので、とても貴重な体験でした。久しぶりの祝詞に神が反応したような気がしました。
われわれの播磨陰陽道は宗教ではないので、〈神〉を信仰したり崇拝してはいません。ただ、その実態を理解し、この世や人々のためにバランスを取ろうとするだけです。神ですら使役する術を駆使出来てこそ、一人前の播磨陰陽師なのですから……。
祝詞をあげる前には必ず拍手を打ちます。これをする理由の多くは〈空間の目〉を把握するためです。
空間には〈目〉と呼ばれるものがあります。その目を柏手の音の響きで知り、そして空間の目に向かって祝詞を唱える必要があるのです。そうすると祝詞の効果が最大になります。
播磨陰陽師は小さな労力で最大の効果を得る種類の術を多用します。
それに関しては、
——苦労多くして効果もなき術は修行に値せず。
と伝わっています。
かつて陰陽師は祝詞の要点だけを唱えて効力を得ました。それは、神職と陰陽師と神がある種のハーモニーを持って唱える種類の祝詞を使っていた時代のお話です。これについては不幸のすべて・第七十一話に説明を書いていますので、そちらもご参考に……。
また、祝詞の前に嵐が起きて儀式そのものが邪魔されるような場合もあります。私はそれでも無視して儀式を行いますが、世の中ではそれによって儀式そのものが失敗することが多いのです。
祝詞をあげて突風が吹くのも不吉です。これは突風で祭壇が倒れた時の儀式を見ただけで経験はありません。すべての突風が不吉な訳ではありませんが、祭壇が倒れるなどもっての他です。
そう言えば、友人が何度か私の祝詞を録音しようとした時、その声だけ録音されていないことがありました。まわりの音はすべて入っていたので、祝詞のみが入っていなかったことになります。
これは周波数的な問題であるらしく、別な友人が、
「オペラのような声楽でも、声が録音されない音域があるらしい」
と言っていました。ですので、そのような理由で録音出来なかったのかも知れません。
また、祝詞で邪魔者を排除する技法があります。ある神社で祝詞をあげようとした時、あろうことか、本殿の中に入った一団が正面で記念写真を撮っていました。本殿で正面に並んで記念写真を撮るなど考えられもしないほど失礼なことです。本殿の前を歩く場合ですら、正面をさけ左の端を〈揖〉と呼ばれる礼法で軽く頭を下げながら歩くのが決まりです。ですので、人祓い技法を使って祝詞をあげました。その時はとてもうまくいったので、失礼な人々は、皆、いなくなりました。
失礼と言えば、最近、神社で祝詞と経文を一緒にあげる人々がいます。神仏習合の神社ではそれでも良いですが、それ以外では避けるべきだと思います。
仏と神は基本的に違うものです。しかし中途半端に仏法をかじった人は勝手な解釈をして、
——神は、仏を守護するものであるので、祝詞と経文をあげる必要がある。
として、神を落としめています。
仏法では五戒で邪見を戒めている筈ですが、それを理解していないのでしょうか?
邪見とは、その人の勝手な思い込みで正しくない思想に陥ったり、間違った行為で祈ることを意味しているのですが、どうにも困ったことです。しかし、そのような人の願いは神には届いていませんので、それが唯一の救いなのかも知れません。
* * *