美醜なんかなくなってしまえばいいのに。摂食障害の話
食べられなくなった。痩せた身体のつらさより先に、私は安心したのだった。
私は元々食欲旺盛なほうで、食べれば太りもするわけだが小学生くらいの頃はそんなところもチャームポイントだと思っていた。
体重だけ見れば、私は標準体重を超えたことが一度もない。だから太ったね(ちょっとブスになったね、とセットで言われることもあった)なんて言葉は本気にしなくていいはずで、傷つく必要もないはずだった。
今となっては誰に言われたのが最初だったか覚えていないし、その時傷ついたのかもわからないし、トラウマなんてものは自分で作ってるんだって意見もあったりする。
だから原因を考えても仕方がないのだろう。
何年もかけて、鏡の中の自分が太っているのか痩せているのかわからなくなった。
「体重ではなく見た目が大事。」
よく目にするけれど、私にはもう自分がどういう姿をしているのかわからないのだ。
美醜への不安は凄まじい。マスク無しで家から出られなくなり、どんな服も似合わないと言って混乱し、授業中に何度も鏡を確認し、休み時間にもトイレに鏡を見に行く。角度を変えて確認する。何分も鏡に張り付いている自分を見られるのが恥ずかしくなって、トイレに閉じ篭って泣いた。もう教室には入れなかった。
拒食も過食も経験した。実感だけでいえば、過食のほうがずっとつらい。もう食べたくないと泣きながらそれでも止まらない。過食のためにお金が減る。食べ過ぎて具合が悪くなる。太ることへの不安と後悔、今日の過食が明日の体重に反映されるくらいなら死んでしまおうか。それくらい苦しい。
今の自分の体型に関係なく「痩せたい」が張り付いているのだから、それが叶いやすい拒食のほうが、(食べることを勧められるつらさや体調の悪さはあっても)私にとっては精神的に楽なのだった。
食欲のある拒食と、食欲自体がなくなってしまう拒食がある。
食欲自体がなくなってしまったとき、私はほっとしたのだ。もう食欲と戦わなくていい。そう思った。
しかし今度は別の苦しさがあった。
丸一日何も食べないだけで、全身の神経が抜けてしまったみたいに身体が動かなくなる。でも、食べるとそれに酷く疲れて動けないほど全身が痛くなる。その頃には、眠る体力もなくなっていた。眠れたとしても、眠ることで体力を消耗し、怠さと頭痛を抱えて目覚めるのだ。
心も体も調子が悪い。食べないことと調子の悪さとどちらが先かわからなかったけれど、悪循環だった。
動くために何か食べなきゃと思ってコンビニに行くけれど、何を手に取っても罪悪感でいっぱいになる。ギリギリ動けるだけのカロリーのものを買って、また罪悪感でいっぱいになりながら食べる。
美醜は地獄だ。体型は自分で管理できるなんて傲慢だ。他者からの否定をきっかけに自己否定を重ねるごとにおかしくなっていく。
自分の身体なのにままならない。意識すればするほど、「私はどう見えるのか」「私はお腹が空いているのだろうか」身体性の全部が「私」から切り離されていって、わからなくなっていくのだろう。
体力がなくなっていく。肌が荒れていく。あばらが出ている。きっと美しくない、わかっているんだけど、それでも太るのがこわい。ひと口がこわい。
痩せたい欲求はきっと際限ないものなので、「幸せなら太っていても痩せていてもいいのよ」なんて、今の私にはいえない。だってどんな体型でも私は幸せじゃなかったのだから。