原体験: 幼い日の「宝探しゲーム」と、死別から7年経った今
きょうだい関係は環境により与えられる役割です
けれど、最終的には自分で選んで成っていくものでもあります
困難や逆境を共に越えた家族との絆は
私に命の重さや尊厳を皮膚感覚で教えてくれます
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突然、4歳児が「お兄ちゃんになることに決めました」と
両親に赤ちゃんを紹介することは、無いですよね
自分の努力では限界があり、環境により与えられます
長男や長女で苦労した方の気持ちは察するし
上も下もいる真ん中さん、うちの下の子のような末っ子
そして両親の目が届きすぎる一人っ子
さらには優等生でいないと、家庭に居場所がない場合だってあります
みんな、何かしら苦労している家族と役割のこと
私が幼稚園に上がる年に、下の子が生まれたました
向こうが早生まれだから
僕らは年齢で5つ、学年で4つ離れています
兄になるのは初めて、お互いに少しずつ成長しました。
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今でも懐かしく思い出すのは、下の子が話せるようになり始めた3つくらいの頃のこと
時は1980年代、私は小学1,2年生
「もう赤ちゃんではないですし
言葉ならば分かるので、何かお手伝いする」
そうアテレコしたい感じで、私の近くで何をしてるのかなあと
観察して真似をしたりするわけです
だから、コミュニケーションの一環として、私はこんな遊びを考えました
「お兄ちゃんの部屋の、あの辺りにこんなものが
置いてあるから取ってきてもらえるかな」と
母からは、下の子は楽しそうに手伝いをしていたけれども
お兄ちゃんのリモコンみたいだったねと言われたことがあります
操作をしているのではなくて、年の離れた子と一緒に取り組める遊びです
つまらなければ、幼い子は応じません。
というのは、三歳児にしてみると、普段は触っちゃっいけないと
言われている兄の部屋で、机の上を探し
頼まれた物を探してくることは
宝探しゲームなのです
文房具のこともあれば、漫画かもしれない
対して超合金のおもちゃなどは頼んでいません
探して見つけて届ければ、喜んで褒めてくれる、嬉しい、そんな遊びです
出来たよあったよと持ってきます
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私ができる事は何だってしてあげたかったけれど
20代前半、今から20数年前は、都内で働いて奨学金を返し
実家で暮らしていました
家賃と生活費として月に七万円をを家に入れることが精一杯でした
もっと頑張りたいけど、貯金も少しはしたいし
自分が勉強するための本も必要だし
あの頃、既に年下の家族は療養生活に入っていました
「プライドなんて、もう無いよ」と本人が述べるほど、苦労しました
家族に病人がいるからこそ、その分も頑張りたかった
でも、誰も誰かの分まで頑張ることは難しいですよね
本質的に人間になることも兄になることを親になることも、僕らは初めてです
経験を通して、今ならもっと深く理解して
いろんなことをしてあげられるのにと
悔いを感じる事は、人間の仕組みとして仕方がないです
経験だけ持って、時を巻き戻して若くなってやり直すことは出来ないから
だけど、その後、私も今の病気を得てから
私と話したいと下の子が言ってくれる時は
世帯が別だから電話が多かったですけど傾聴しました
その結果、強いストレスを受け、睡眠障害が悪化したりするから
頓服として処方された強い薬を服用したものです
ずいぶん無理をしました
私と電話で深い話をした後に、気分転換になるらしく
「話してよかった」と言ってくれたことに、日々救われています
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現代の医学で完治するのは難しい病気だけれども
人間の限界として無理だったんだけど
それでも助けてやりたかった
2017年に事故で亡くなり、7年が経った今
Netflixでも Spotifyでも生成AIでも
話題は尽きないから、話せたらいいのにと切に願います
対人関係の距離が近い家族だからこそ
分かり合えないことはあるけれど
家族や兄でいられて良かったなぁと思うのです
憎しみ合うのではがなく、喪失すれば苦しめる関係性を獲得出来たから
確かに僕らは環境によって、兄など役割を得ます
けれど、最終的には自己形成の過程で
自分で選んで成っていくものに思うのです
困難や逆境を共に生きた、自らの意思で家族になることを選んだ、自慢の家族です
大学の卒業式で主席のスピーチを頼まれるくらい努力家だけど
そうしたスキルや能力ではなく
何も出来なくていいから存在していて欲しい気持ちと
何もできなくなって生き抜くことの苦しさも
見ているから、本人の寿命以上に望んでしまうことは残酷
こんな風に、年下の家族の生涯を通して、私は命の重さと尊厳を教わり
気づきを与えられ、成長しています
どうやら、我々の宝探しゲームは、今は私のターンのようです