喜怒哀楽
20220627
めずらしくイライラした。自分のことではないのだけど、側で勝手にイライラした。
親の言動に傷つけられたという感情、悲しみや怒りを持つことと、親に感謝することは両立する。
どうしてこの2つの感情が1人の中にあることを、認められない人が多いんだろうか。
むしろ、それらが併存してしまうことこそが、人を悩ませるということに、なぜ思い至らないのか。
まして、どちらかを正解として、誰かの不正解を正そうなんて輩が蔓延るのはなぜなんだろうか。
優秀と言われる人だろうと、いい人と言われる人だろうと、話していてそこでつまづく。
親は尊いものでないといけないという謎の決まり事でもあるのだろうか。
あなたにとって尊いものでも、別の誰かにとっては違うって側面があることが、なぜ想像できないのか。
反吐が出る。気持ち悪い。
親との関係に気持ちが悪くなるんじゃなくて、手前の親との関係にまつわるその見方を、押しつけてこようというその態度に吐き気がする。
そんな奴が、まわりや自分の子どもに同じことをしてしまっているのかもしれないと想像して腹が立つ。引きずりまわしてやろうかという気分になる。
それと同時に「ああこの人はこれまでの人生で、自分自身の感情を押し殺すこと、見て見ぬ振りすることに慣れすぎてしまったのかな」と、一種の哀れみも抱く。まあ知ったこっちゃない気もする。
自分で言うのもなんだけど、めずらしく激しい怒りを感じてしまったので、書き留めておく。
瞑想とかやってて、怒りとかイライラとかいいのかよと思われる方もいるのかもしれない。
瞑想は、感情って側面に対しては、暴走することを止めることに効果的だろうと、僕は思っている。
感情の起伏に振り回されないことが大切であって、感情を失くしてしまうことは全く本意じゃない。
あくまで身体の中の(あるいは外の)、様々な声に耳を澄ますこと。それらの声を認めて受け容れること。そうすることで、暴走を食い止めていく。
瞑想で喜怒哀楽はなくならない。喜怒哀楽の暴走がしづらくなる代わりに、自身の喜怒哀楽はより繊細に感受できる。
…なんて瞑想の宣伝で終わってしまった。
まあ他人のことどうこう気になるときは、自分がしょうもない状態になってしまっている時だし、偉そうに言えるような奴でもないので、他人のことああだこうだ言わず子どもと妻と自分と向き合います。
気づかせてくれたことに感謝を。
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