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武田砂鉄に勇気を貰う

 

『父ではありませんが 第三者として考える』  武田 砂鉄 著:集英社


 個人的な話だが、私は数年前に結婚したのだが、自分も妻も四十を過ぎており、いわゆる晩婚というやつだ。子供はいない。子供を作る作らないについては、しっかり話し合ったというよりは、お互いそれほど若くはないのだし、というところで落ち着いている。
 本当は、私も妻も共働きだし、自分たちの年収や、自分たちの仕事の休暇の取得もあまり取れない状況…などを考慮すると、やはり積極的にはなれないという側面も。(ある自民党議員が少子化は晩婚化が原因と発言したが、要因はそれだけではない。いわゆる生活格差によるところも大きい)

 ちなみに私は高齢者施設で働いているのだが、先日、八十過ぎの比較的まだお元気な男性のお年寄りから、「あんたところは、もうお子さんは大きいのかい?」と訊かれた。私も四十過ぎだし結構こういうことは、訊かれるので、いつものように「いえ、僕たち夫婦は子供がいないんです」と返す。
(さすがに若い人は遠慮もあるので露骨にはそんなことは訊かないが、お年寄りは結構、子供の在る無しについても下世話に訊いてくる。昔はそれが当たり前だったと言わんばかりに…)
 「そりゃ、あんた寂しいなぁ…」とぽつりと言われた。いつもなら別に気も留めないのだが、考えてしまったのだ。
 私たち夫婦は、喧嘩もするけれど、お互いに助け合いながら、楽しく暮らしている。正直、子供がいなくても寂しいと思ったことはないし、そもそも最初から子供はいないので、そんなこと思いようがないのだ。寂しいと感じるのは、もともと居たものが何らかの理由で居なくなったときに、はじめて感じる感情では?
 それにしても私たち夫婦は、ほんとうに寂しいのだろうか。

 そんなモヤモヤした感情は、つねにあった。そんなモヤモヤをきちんと言語化して問題提議してくれるのが、ライターの武田砂鉄氏。彼の書く本を読むと、なるほど、そういうことだったのかという気づきがいつもある。
 今回の新著『父ではありませんが 第三者として考える』もそうした大きな気づきを与えてくれる本。
 武田氏も結婚しているが、子供はいないそう。そしてそこから生じるさまざまな世間との違和感。
 武田氏は言う。
 何かを経験することは文字通り経験、未経験を保つのもまた経験。経験者と未経験者が自由に重なって意見し、物事が重層的になる。どんな人も大抵は未経験で、第三者。当事者と当事者でない人が結びつき、問題を解決していく。なので立場によって言葉を発する資格を問うてはいけない。
 武田氏の「自分は父ではない」という立場から、父親について、子供のことについて話をすると、そういう資格があるのか?と言われてしまう。
 しかし第三者にも当事者性はある、と筆者。むしろ「でない」側からも眼差しを向けなければ、ありとあらゆる全体像が見えてこない。では、父親ではない人間が考える親・子・家族とは何か、というのか本書だ。
 
 ここのところ自民党総裁のLGBTへの差別発言とか、少し前に更迭されたかの議員の「生産性がない」などの言論。よくよく考えれば、既婚子ナシ族(酒井順子:子の無い人生、からの言葉)や独身者も、生産性の問題で国から一括される。子供を持たないというのは、非生産的でスタンダードではないという言論は怖いと思う。
 そういう社会を疑うこと。武田砂鉄に勇気を貰った気がした。


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