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複雑系な稽古ということ

1.店員に虚を突かれる

 酒類の販売に年齢確認が義務づけられた頃だったと思いますが、とある量販店でビールを買おうとしたら、レジの人に「年齢を確認できるものはありますか?」と訊かれたことがありました。

当時二十歳は大きく超えていましたし、今までそんな確認をされたこともなかったので、私は最初、何を言われているのかよく判らなくて、しばし呆然。

「あの…年齢を確認できる証明書など…」と改めて言われてハッと我に返り、もそもそと免許証を出したのですが、つい苦笑いしながら「…そんなに若く見えますかね?」と、おそらく新人らしいレジのお兄さんにこぼしてしまいました。

昔から「パパ」だの「親方」だのという呼び名で呼ばれていた私は、およそ若く見られるなんてことはありえないと思っていたので、「いつものお会計」という日常に挟み込まれた「まさかの年齢確認」というあまりの虚を突いた攻撃に、微動だにできなくなってしまったのです。

もしこれが暴漢の不意打ち攻撃だったならば、今ごろ私は路上に突っ伏していたであろうし、キャッチセールスであれば暴値の教材セットの契約書にふらふらと印鑑を押してしまっていたかもしれません。

あるいは私が混乱して思考停止しているうちに、「あ、やっぱり結構です。失礼致しました。」と慇懃に頭を下げられすみやかに会計を済まされて、その隙にお釣りを千円ばかりちょろまかされたとしても、もしかしたら全然気がつかなかったかもしれません。

まあ別に店員のお兄さんも、私を混乱させようと思って発言したわけでもないでしょうが、いずれにせよ武術の稽古に励んでいたその頃の私にとっては、「これしきのことで虚を突かれて身動き取れなくなるとは一生の不覚…」と、反省したことを思い出します。

まあ「一生の不覚」なんて、これまで何十回反省したか分かりませんけど、改めて「虚を突く」ということの効果を深く考えさせられた出来事でした。

2.スパイの侵入テクニック

整体でも「呼吸の間隙」だとか「機・度・間」だとか、「機」というものの取扱いを非常に大事にしますが、それは「ここ!」という「機」を読んでパッと動ける身振りを身に付けた者は、先を取って相手を自在に誘導することができるからです。

その「機」というものを、ただ待つだけでなく、積極的に引き起こして活用するのが、整体の技術なのです。

それは喩えるならば、映画などで銀行強盗やスパイが金庫や敵のアジトに侵入するときに、ちょっとしたアクシデントを引き起こして、その一瞬の混乱のうちにもっとも警備の厳重な部分をくぐり抜け内部へと侵入し、その後は何事もなかったかのような平常に戻すテクニックを披露しますが、そんなようなものに近いかも知れません。

そこで行なわれていることは、ちょっとした混乱を利用して古い現行のシステムを一時停止させ、そのわずかな停止の間に古いシステムに代わる新しいシステムを稼動し、素早く構造全体に協調と安定をもたらすことで、何事もなかったかのようにシステムを移行させる、という方法です。

良くも悪くも人を変えるプロというものは、まずは人の既存の思考の流れを一瞬混乱させ、そこからふと我に返って正常な思考判断が始まるまでのごくわずかな間隙に、すみやかに一番肝心な仕事を終わらせてしまって、その後はのんびり淡々と仕事をして、その変化を相手の意識にのぼらせないままに定着させてしまうのです。

まあでもそのような方法は、何もそんなスペクタクルな状況でばかり行なわれるわけではなく、私たちの社会のあちこちで身近に行なわれていることでもあります。

たとえば線路の切り替え工事なども、ごくわずかな運休期間の合間に集中工事をしていますし、SNSやオンラインの多くのサービスも、短期間のサービス停止中にメンテナンスやアップグレードを行なっていますが、それらも言ってしまえば同じことです。

それらはサービス停止を事前に通告することによって、客の混乱をできる限り少なくするようにしていますが、それでも停止の期間が長引けば混乱が起こることは必然ですから、ここで重要なことは、「いかに素早くシステムの切り替えを行うか」ということと、「新システムによる全体の統御を、いかに素早く安定させられるか」ということであり、それは銀行強盗やスパイのときも一緒なのです。

3.癖からの跳躍

私たち人間の運動指導ということを考えたときにも、そのようなシステムの切り替え方法は非常に重要になってきます。

私たちのどんな運動も、いくつかの動きが組み合わさった「動作」という一つの文節があり、その文節がさらに連なり組み合わさることで、一連の「身振り」という文脈になっています。

たとえば「コップの水を飲む」という一つの身振りの中にも、分解すれば「腕を上げる」「手指を開く」「気管を閉じる」「嚥下する」…などなど、とても上げきることのできないほど多くの動きがあり、それらはいくつか組み合わさることで「コップを取る」とか「水を飲む」といった動作の文節となり、それらがさらに組み合わさって協調することによって、「コップの水を飲む」という一つの身振りの文脈が構成されているのです。

ですから、その動作の文節の「間」に不意に声を掛けられたりすると、動きのなめらかな協調が失調をきたし、コップを落としたり、水をこぼしたり、むせ込んでしまったり、いろんな運動の失敗や欠落が起きることになります。

「腕の持ち上げ方」だとか「コップの持ち方」だとか、そのようないくつかの動きの組み合わさった動作の文節や文脈といったものは、その組み合わせの仕方に一人一人の個性があり、それが言ってみれば私たちの癖なのです。

そういう癖は、試行錯誤の末に選ばれていったものであり、もちろんある程度の有効性があるからこそ採用されたものではあるのですが、環境の変化だとかケガだとか老化による筋力低下だとか、さまざまな事情によって上手いこと機能しなくなってくることがあります。

それが私たちの運動システムの柔軟性ではカバーできないほどに大きくズレてきてしまったときに、いわゆる「身体の不調」として私たちの意識に前景化されることになるわけですが、そうなると「新しい動き(運動システム)」を獲得するということが必要になってきます。

ところが、今までの動きとまったく違う「新しい動き」というものは、今までの運動をボリュームアップさせたり、スピードアップさせたりといった、量的なトレーニングを増やすことでは到達できません。

何故なら、新しい「運動システム」は、今までの「運動システム」の同一直線上には無いからです。

ですから、新しい動きを獲得しようとするのであれば、違う直線上への「跳躍」が必要になってくるのですが、その際にもっとも障害となるものが、現に今それによって成り立っている「今までの古い運動システム」なのです。

「その古いシステムがけっこう有効であり、なおかつ今までそれでうまくやってきた」という確かな事実がそこにはありますから、それも当然と言えば当然でしょう。

4.一瞬のカオスを挟み込む

ではどうやったら、その「新しい運動システム」への跳躍が可能となるのでしょう。

それこそが先の銀行強盗やスパイの取った方法で、つまり古いシステムの停止する瞬間を引き起こすことで、そこに秩序のない一瞬、つまりカオスを意図的に作り出すという方法です。

その一瞬のカオスが生まれている「間」は、あらゆる結び目がほどけているので、そこに新しいシステムがスコンと入る余地が生まれます。あらゆる「動きの文法」がゆるんでほぐれたその瞬間に、新しい文節と文脈で全体をつなぎ直すのです。

『問題のあるパターンが必要以上に固定してしまっているときには、それを解きほぐすようなダイナミカルな方策を講じる。

それはたとえば、さまざまに「制御パラメータ」(歩行速度)を変化させることで、「秩序パラメータ」(歩行パターン)が不安定になる領域を探していくことによって発見されるかもしれない。

ダイナミカルな観点から見れば、たとえば「歩く」から「走る」への転換期など、ある運動からそれとは違う運動に変化する瞬間には一時的に「秩序パラメータ」が不安定になることがわかっている(これを「臨界ゆらぎ」と呼ぶ)。不安定とはいえ、前述のように、新しい行為が「創発される」ための条件なのだ。

したがって、もし歩行速度などの「制御パラメータ」を変化させていったときに、歩行パターンなどの「秩序パラメータ」が不安定になる領域を見つけることができれば、まさにそのときが、固着した運動から、それを新しい、より適切な運動に再構成していくためのチャンスなのかもしれない。』

三嶋博之『エコロジカル・マインド』NHKブックス(2000)

さらには、前回の記事で触れた「ベルンシュタインの第二の解法」である、「小規模の運動をより大きなシステムに投げ入れる」という方法も同じように有効であるでしょう。

『R・ヴァン・エメリックと、その共同研究者のR・ワーヘナールは、一人のパーキンソン症候群の患者のケースを報告している。

この人は、左手に、パーキンソン症候群の震顫(しんせん)があることが確認されていた。意図とは関係なく、手が震えてしまうのである。この人に、トレッドミルと呼ばれる、駅や空港などにある「動く歩道」のような装置の上で歩いてもらい、その速度を徐々に上げていった。

すると、驚くべきことだが速度が毎秒0.8メートルほどになったところで、手の震顫が消失したのである。歩行速度がゆっくりしていたときには、腕をあまり振ることもできず、毎秒4~6回くらいのパーキンソン症候群の震顫が認められていた。

しかし、歩行速度が上がると、腕の振動は歩行にともなう脚の周期と同期し、それによって、パーキンソン症候群の震顫が「乗っ取られる」ような状態になった。しかも、一度「乗っ取られる」と、歩行速度をゆっくりとしたものに戻しても、パーキンソン症候群の震顫は現れることはなかったのである。』

三嶋博之『エコロジカル・マインド』NHKブックス(2000)

ここで行なわれていることは、自分の意志では止められない手の震えを、「歩く」という上位の大きなシステムの中に組み込み、さらにその上で「歩く」というシステムが「走る」というシステムへと相転移する臨界域に持っていくことで、そこに一瞬のカオスのゆらぎを生み出し、システム全体に働くホメオスタシス(恒常性)によって手の震えを消失させるという、かなり興味深い実践です。

何らかの失調があったときに、より大きくて複雑なシステムの中に組み込むということ。そしてその大きなシステムの運動中に、機を見て一瞬のカオスを挟み込むことによって、システム全体の再起動を掛けて、丸ごと整えて立ち上げるということ。

その大きなシステムのホメオスタシスに巻き込まれて、部分の失調が文脈ごとつながり直して整えられていくということは、私には何だかとっても腑に落ちる出来事です。

複雑系な私たちの、複雑系な運動システムに対してできることは、やはり複雑系なアプローチであり、複雑系な稽古なのかも知れません。

一瞬のカオスは、新しい秩序が誕生するための臨界点です。

カオスを怖れないためにも、大きな協調作用に対する信頼感の醸成が、複雑系な稽古には必須ですね。

ということで皆さん、まず宇宙とつながりましょう!(デカい)

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