それぞれの身体性を持ち寄って
1.無意識の検閲
私たちが意識できていることというのは、ほんのごくわずかであって、無意識や潜在意識のレベルでは非常に多くのことを感じ取っていると言われます。
それはつまり、私たちはいろんなことを感覚してはいるけれど、それらの情報を何らかの形で取捨選択しているということで、しかもそれは私たちの意識にのぼらないところで行なわれているということです。
たしかに私たちの身の回りにはつねに多くの情報が氾濫していて、それらのすべてを一つ一つ意識して「これは必要、これは不要」などと選別していたら、その選別作業だけですべてのリソースを割かれてしまって、身動きできなくなってしまうでしょう。
だから無意識のうちにほぼ自動的に情報の取捨選択をしていくということは、極めて合理的なことであって、私たちが生きていくために必要な身振りではあるのです。
でも、自分の気づかぬところで検閲が行なわれていて、しかもその選別基準が自身であっても明確に捉え切れていないということは、これはなかなかに難しい問題を孕んでいます。
それは長所と短所を多分に含んでいて、時折身をよじって自分がいったいどんなものを捨てているのか振り返ってみる身振りが、私たちには必要であるような気がします。
そうでなければ私たちはたちまち、見たいものしか見えず、聞きたいことしか聞こえないような、そんな閉鎖的で硬直した状態に陥りかねないのです。
2.いつの間にか分かんなくなる
「私たちは意識できていないだけで非常に多くの情報を受け取っている」という事実について、「なるほど。その通りだな」と思うようになってから、私は「自分をよく見せよう」というようなことは無駄な努力だと思ってしないようになりました。
つまりどうせ他人はみんな全部分かっているからです。
意識はしてないかも知れませんけど。
自分がどんなに良い人ぶって着飾ったとしても、周りにはそんな身振りをしていることも含めてすべてバレバレなのだと、そういう風に思えるようになってから、なんだかむしろとっても気が楽になって自然体でいられるようになったのです。
以前、講座でそんなお話をしていたら、ある参加者の方がとても興味深いお話をしてくれたことがありました。
その方は「私は子どもの頃、トランプをやっていてもジョーカーがどこにあるのか全部分かったんです」と言うのです。
だから、たとえばババ抜きのようなゲームで周りの人たちが「ババ引いたー!」などと言って楽しんでいる様子が、まったく意味が分からなかったそうなのです。
それでその方は、みんながどうしてそんなに楽しくトランプができるのかを、子どもながらに一生懸命考えてみたそうです。
それで出した結論が、「分かった。みんなジョーカーがどこにあるのか分からない振りをして楽しんでいるんだ」ということでした。
そうして、自分も分からない振りをしてトランプを楽しむことにして、ようやくみんなと一緒に遊べるようになったそうなのです。
それで結局どうなったか。
その方曰く「そうしたら、いつの間にかジョーカーが分かんなくなっちゃったんですよ~(笑)」。
もちろん子ども時代の記憶ですから、その真偽のほどは定かではなく、その方の単なる思い違いであるかも知れません。ですが、とても示唆に富んだ興味深いお話だと思うのです。
3.赤ちゃんは見分けている
発達心理学者のパスカリスの研究によると、生後6ヶ月ほどの赤ちゃんにはサルの顔を個体識別できる能力があるそうです。
大人の私たちから見れば、ほとんど一緒にしか見えないサルの顔でも、小さな赤ちゃんはそこにきちんと個性と違いを見ているのです。いったいどれほど繊細な観察力を持っていることでしょう。
ですが、残念ながらその能力は9ヶ月の頃には、ほとんど失われてしまうそうです。
何故かと言えばそれは単純な話で、そんな能力は必要ないからです。
赤ちゃんにとって重要なのは、身の回りの人間の個体識別であったり、あるいは自分のパパやママの細かな表情の変化から感情を読み解くことであるわけで、サルの個体識別にその能力を振り向けるより、周りの人の個体識別能力に力を注ぎ込んだ方が良いに決まっています。
赤ちゃんはそうやって日々の暮らしの中で無意識のうちに、自身の生存にとって有利な方向に学習の方向を決定付けているということで、それもまた無意識の取捨選択です。
まあ、そういう意味では本来驚くべきは、赤ちゃんの持っている個体識別能力というよりも、それぞれ異なる個体の形姿から「サル」という共通概念を発見してグループ化する、人間の認識能力であるのかも知れません。
つまりチワワとドーベルマンを見て、同じ「イヌ」だと認識する能力の方がすごいのかも知れないということです。
それによって人間は、世界認識のレイヤーの次数を限りなく繰り上げていくことができるようになったわけですからね。
4.「大人になる」って?
私たちを取り巻く日常というのは、良くも悪くも虚構に満ちあふれています。
分かっていることをあえて言わずにおいたり、見て見ぬふりをしたり、心にもないことをつぶやいたり…。
それは良く言えば「社交辞令」、悪く言えば「欺瞞」です。
私たちの社会というものは、ある種そういうものによって成り立っていて、だから私たちは、そういう能力を身に付けてゆくことを「大人になる」と呼んで、そういう能力を身に付けていない人間を「子ども」と呼んで、彼らに「大人になれ」と言うのです。
「それが共同体の中で生きていくということだ」と。
私たちはみな、無意識のうちにはいろんな事が分かっているのですが、それをそのまま表に出していくことは、共同体から疎外されかねないリスキーなことなのです。
だから私たちは、分かっていたとしても、言わないようにしながら、気づかぬようにしながら、分からないようにしながら、暮らしてゆくのです。
共同体の中で疎外されないように、不要な諍いや争いの起こらぬように…。
そして、そのうちホントに分からなくなってゆくのです。
けれども、そんなことが「大人になる」ということであるとするならば、何とも悲しいことではないでしょうか。
5.身体性を持ち寄って
私たちは、私たちが無意識に行なっている検閲を、空気を読んで行なっている検閲を、大人として問題を起こさぬようにと行なっている検閲を、もう一度身をよじって振り返ってよく見てみる必要があるのではないでしょうか。
最近それをますます強く思うのです。
何故なら「気づいているのに、分からない」ということが、じつはとても苦しいことだからです。
見ないようにしているうちに見えなくなり、分からない振りをしているうちに分からなくなって、でもそれでも「感じていること」それ自体からは逃れられないのです。
私たちが時折抱く得体の知れない不安感や焦燥感には、そのような構造が潜んでいることが多々あります。
それは自己検閲によって禁止されてしまっているさまざまです。自身が自身を縛り付けようとする、いわば「自己検閲疾患」です。
それは苦しいに決まっています。自身によって引き裂かれるんですから。
私は、そんな検閲をちょっと休めて、素朴に感じていることを誰でももう少し表に現して、そして対話のテーブルに乗せていけるような、そんなコミュニケーションの場が作れないものかと、そんなことを考えています。
そこに必要不可欠であるのが「身体性」です。
それぞれに唯一無二な「身体性」を持ち寄ってコミュニケーションを取ることで、私たちが共通理解としている概念では汲み取られていない、各々の感じている感覚の微妙な差異についてシェアリングすることが、いま私たちに必要なことなんだと思います。