ゆるむこととゆるすこと
「ゆるむこと」と「ゆるすこと」は、同時に訪れます。
人はそのからだをゆるめることができたときに、何かをゆるすことができるようになり、そしてまたゆるすことができたときに、からだがゆるむのです。
「ゆるまない」ことも「ゆるせない」ことも、どちらも何かを受け流してリリースしてゆくことができずに、滞って閊えてしまった状態です。それはつまり停滞であり、固着であり、執着であり、硬結です。
整体ではあらゆる心身の変動に対して、基本的にはそのプロセスを「経過する」「全うする」ということを大切にしますが、どこかが「ゆるまない」「ゆるせない」ということは、そこには何か経過を滞らせるものがあるということです。
そのときに、それを良いとか悪いとか判断するよりも、「そこにそのままスルーできない何かがある」というただそのことを、そのまま受け止めていくことが大事です。
そこに至ると、流れがスムーズに経過せずに停滞するということ。そこに差し掛かるたびに、何か引っかかって次へと進めなくなるものがあるのです。
運動の閊え、感情のしこり、思考の停滞…。
その閊えがそこでグルグル回ってしまうことで起きているならば、ちょっと刺激して流れの角度を変えてあげれば、そのままスムーズな流れに還って抜けてゆくかも知れませんが、たびたび繰り返されたり、あまりにも強烈な刺激を受けたりして、強ばり固まってしまっていると、ちょっと刺激してみたくらいではなかなか変化しないかも知れません。
「ゆるまない」ということは、その緊張をもたらす原因が本人の中でまだ解消されていないということであり、「ゆるせない」ということは、本人の中でその出来事についてまだ終わっていない何かがあるということなのです。
どんなことでも全うしなければ、いつまでも終わることはありません。 だから基本的にはどんなことでも、とにかくしっかりやり切って全うしてゆくしかないのです。そのとき初めて私たちはゆるんで、ゆるせるのです。
でも、それが難しいんですよね。
まあでも言ってしまえば、人生なんてそんなことばかりであるかも知れません。さまざまな閊えや未練や怒りや後悔で、あちこちが独特に歪んで強張っているのが、人間という生き物の個性そのものであるかも知れません。
「人は死ぬときに整体になる」と野口晴哉は言いますが、「私たちが生きている」ということは、「世界でたった一つの独特の癖や歪みを生きている」ということでもあります。
その歪みが消えるときは、その形を失い、大きな世界の海の中に還ってゆくということなのです。
私たちが生きるとは、いろんなことに喜んだり、愉しんだり、悲しんだり、怒ったり、寂しがったり、悔しがったりしながら、独特な歪み方をした心的過程を味わって、それらを経過し全うしてゆくことなのでしょう。
そのたび私たちの中には刺激に対する硬直が生まれ、それらをゆるめて、ゆるして、全うして、経過してゆくのだと思うのです。そしてときには、どうしても経過しきれずに最期まで抱え込むことだってあるでしょう。それもまた人生の形です。
それらのプロセスは、経過することですべてが消失してしまうのではなく、どこか私たちの心身にその痕を残していて、それが微かな独特な歪みとして私たちの個性を形成しているのです。
ですがその歪みが、個性と呼ぶにはあまりにも歪みすぎ、病的な過程にまで及んでいるのであるならば、それはゆるめてリリースしてゆくことが必要でしょう。
発熱や発汗、嘔吐や下痢といった排泄の症状をしっかり全うしてゆくことが、からだをゆるめてしなやかな状態へと整えていくように、喜怒哀楽の感情の発露をしっかり全うしてゆくことが、いろいろなことをゆるして、こころをしなやかな状態へと整えていくことになるのです。
どんな些細なことでも、閊えていたり、引っかかっていたり、ゆるめていなかったり、ゆるせていなかったり、そんな自身の中の違和感に気づけたら、できる限りそれを表に現わして、全うして、リリースしてゆくこと。
そのときに必死に頑張る必要はありません。
それはむしろ意図を手放してゆくことで促されます。