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人のこころとからだ まとめ

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私たちの「こころ」や「からだ」について書いた文章をまとめています。こころとからだは、一つの現象の二つの現われであると思っています。人という営みは、個人のこころとからだを通して、多…
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記事一覧

こころの打撲と儀式

1.こころの打撲身近な愛する人が亡くなったとか、ずっと肌身離さず大切にしてきた物を失ってしまったとか、そんな衝撃的な悲しい出来事があったときに、人はガタッと調子を崩すことがあります。 気づくとただボーッとしていたり、何かとミスばかりしてしまったり、仕事が手につかなくなってしまったり、ときには人間関係に支障をきたしたり、病気になってしまうこともあるでしょう。 何というか、その人の持っているある種のリズムが大きく乱れて、いろんなことがスムーズに行かなくなって、ガタガタッとし

発酵分解するニッポン

日本という国は、火山や地震の活動が非常に活発で大地がつねに蠢いている、そんな国です。 火山や地殻変動によって造られた急峻な地形が連なり、そこに梅雨には長雨が降り続け、夏には台風の通り道となって南からの雨風が吹きこむので、潤沢な雨量が大地を削って、さらに起伏に富んだ地形を造り出し、流れの早い河川があちこちに生まれることになりました。 そんないろんな刺激が絶えず混じり込む風土は、狭い範囲の中でもさまざまな環境条件の違いがあって、その環境の違いが豊かな植生のグラデーションを形成

健康の3つの要因

1970年代の初頭、ナチスの強制収容所を生き延びた女性たちの健康状態を調査するプロジェクトがありました。 強制収容所では、ホロコーストに代表されるような大量殺戮が行なわれていましたから、そんな中を生き延びてきた女性たちは心身に大きな傷を抱えることになり、戦争が終わって収容所から解放された後も、日常生活の中でそのトラウマや後遺症に悩まされる人が大勢いたのです。 プロジェクトメンバーの一人である医療社会学者のアーロン・アントノフスキー博士は、多くの研究者が後遺症に苦しむ人たち

ゆるむこととゆるすこと

「ゆるむこと」と「ゆるすこと」は、同時に訪れます。 人はそのからだをゆるめることができたときに、何かをゆるすことができるようになり、そしてまたゆるすことができたときに、からだがゆるむのです。 「ゆるまない」ことも「ゆるせない」ことも、どちらも何かを受け流してリリースしてゆくことができずに、滞って閊えてしまった状態です。それはつまり停滞であり、固着であり、執着であり、硬結です。 整体ではあらゆる心身の変動に対して、基本的にはそのプロセスを「経過する」「全うする」ということ

ごっこ遊びに学ぶ

ずいぶん前に知人宅へ遊びに行ったときのこと、その家の五歳になる子どもと一緒に愉しく遊んだことがありました。 二人で家中をかくれんぼしながらコソコソと歩き回ったり、二階の廊下に一緒に寝転がって階段の隙間から見える台所のお母さんの様子をこっそりのぞいて、小声で「ママ、気づいてないね…」なんて内緒話をしたりして。 廊下に寝転がりながら顔を付き合わせて内緒話をしていると、何だかまるですごい秘密を共有しているようで、そんなことはまったく知らずに台所でいつも通りにご飯の支度をしている

こころの形と礼の型

1.「型」による教育何かを作ったり練習したりしているときに、それが「多少は人様に見せられるかな」というギリギリの合格ラインを超えたところで、「ようやく形になってきた」などという言葉を口にすることがあります。 それまでは、パッと見ただけでは未だ何物とも呼べない正体不明な覚束ないものだったのが、ようやくその輪郭がハッキリして何某かの気配を感じさせるようになってきたときに、私たちは「形になった」とそう言うのです。 昔から、そのような「形(かたち)」を作り上げるために、「型(か

物質のヴェールをめくって

『野口整体の「方法」講座 第二弾』がおかげさまで盛況の内に終わったのも束の間、オンラインでの『老いの美学』講座が始まるので、そちらも頭をフル回転させながら第一回を迎え、何とか無事に終えることができました。 どちらも気合いを入れての新講座だったので、ここ一ヶ月くらいはずっとどこか落ち着かないままに、ひたすら本を読みあさって勉強ばかりしていたような気がします。 『方法講座』は今まで自分の積み重ねてきたことの振り返りとアウトプットが主題となり、『老いの講座』はこれから自分が歩ん

弱い舟

言葉というものは便利です。もし言葉がなければ、人に何かを伝えたいと思ったときに、いったいどれだけ大変な思いをすることになるでしょう。 身振り手振りのジェスチャーに加え、それでも伝わらなければ絵を描いたり、寸劇をやってみたりしながら、何とかして自分の思っていることを理解してもらわなければなりません。 そんな苦労を無くしてくれる言葉というものが大変便利であることは間違いありませんが、言葉自体がさまざまな情報を削り取って抽象化することによって成り立つものなので、どうしても断片的

連綿とつながる人の仕事

以前、山の中で行なわれていたイベントに行ったとき、その山の持ち主で、そこで林業を営んでいる方とお話しする機会がありました。 その方は、目の前にある高さ5mほどの木を指差しながら、「このヒノキは10年前に植えたもので、あっちの大きなヒノキは40年くらい前に植えたものです」と言います。 ご本人は50代くらいの方でしたから、その大きなヒノキが植えられたのはおそらく当人が小学生くらいの頃のことでしょう。ですからきっとその方のお父様かあるいはお祖父様が植えられたのかも知れません。

名もなき遊びが始まる

講座などで、しばしば「感覚遊び」をすることがあります。 現代は頭を使って考えることばかりが多いので、感覚を働かせて感じたり動いたりすることの愉しさと大切さというものをもう一度実感してもらう意味もあって、あまり難しく考えずに「からだで遊ぶ」というところに軸足を置いたワークをやってみるのです。 ただからだを動かしながらその感覚を味わってみることもあれば、いろいろな道具を使って遊んでみることもあるのですが、その中で私が気に入っているものに「木板カルタ」というものがあります。(見

手で考え足で思う世界

このゴールデンウィークは、妻の実家である益子の陶器市に遊びに行っていました。 義父母も陶芸家なので毎年テントを出しているのですが、日本中から陶芸作家たちが集まって、それぞれの想いを込めた器たちが街中ところ狭しと並ぶ様子は本当に圧巻です。 器というものは、世界中のどんな家庭にも必ずある日用の必需品でありながら、考えれば考えるほどに哲学的な在り方をしていて、街中に並ぶ器たちに囲まれていると、いつも不思議な気持ちにさせられます。 益子と言えば、民藝運動の中心人物の一人である濱

夢見のダンス

私たちは普段さまざまにからだを動かしていますが、改めて考えてみると、ほとんどのからだの動きについて私たちは何も知りません。 「指一本動かすこと」についてすら、どのような仕組みで、どのようにその機能が果たされているのか、私たちは何も知りません。 スマホがいったいどんな仕組みで動いているのか、多くの人が何の知識も無いままに使っているように、からだについても私たちはほとんど何も知らないのです。 私たちは、成長する過程で身に付けた「何となくこうすると指が動く」というきわめて感覚

思考が成ろうとするカタチ

1.シュタイナー自伝を読むシュタイナーの文章を読んでいると、「いったいこの人の頭の中はどうなっているんだろう?」と思わないではいられません。 シュタイナーの描き出す表象世界はとにかく壮大かつ緻密で、なおかつそれを普段まったく聞き慣れない神秘学用語で構築してゆくものだから、慣れない人は一瞬にして置き去りにされてしまいます。 私もシュタイナーを読み始めたときには、何度置いてけぼりにされたことか知れません。 一つのセンテンスを何度読み返しても、書いてあることのイメージがまった

ただ居るということ

ただ居るということは、私たちが思っている以上にけっこう難しいことだと思います。 さして用のない場所で、ただポカンとした時間を過ごす。ただ居るだけ。ひょっとしたらそこにはいろんな人が居て、みんな忙しそうに働いているかも知れない。でもそんな環境の中、ただ居るだけ。 そんな光景をありありと想像してみると、ただ居るということも意外と難しそうだと思えてくるのではないでしょうか。 とくに日本人というのは、そういうときに周りの人に対して何だか申し訳なく思えてしまって、ソワソワしちゃっ