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弱い舟

言葉というものは便利です。もし言葉がなければ、人に何かを伝えたいと思ったときに、いったいどれだけ大変な思いをすることになるでしょう。

身振り手振りのジェスチャーに加え、それでも伝わらなければ絵を描いたり、寸劇をやってみたりしながら、何とかして自分の思っていることを理解してもらわなければなりません。

そんな苦労を無くしてくれる言葉というものが大変便利であることは間違いありませんが、言葉自体がさまざまな情報を削り取って抽象化することによって成り立つものなので、どうしても断片的に切り取った情報になってしまうことは避けられません。

言葉の持つ怖いところは、その言葉の切り取り方によって、本来からはズレてしまった誤解を相手に生み出しかねないところです。

言葉の切り取り方は、あくまで名付けた人の個人的、文化的、時代的な主観によって行なわれる恣意的なものであるにも関わらず、そのものをその言葉によってしか知らない人にとっては、それしかないのです。

しかもその言葉からどんなイメージを想起するかは、完全に受け手に委ねられていて、それは今度は受け手の個人的、文化的、時代的な主観に左右されることになるのです。

ですからひとたび言葉で説明すると、それによって相手の認知をその言葉で縛り付けてしまうことになりかねない。それが言葉の持つ「呪(しゅ)の構造」です。

荘子の言葉にこんなものがあります。

『「筌(うえ)」というのは魚を捕まえるための道具だ。魚を捕らえてしまえば「筌(うえ)」に用はない。「筌(うえ)」 のことは忘れてしまう。わなは兎を捕らえるための道具だ。兎を捕らえてしまえばわなのことなど忘れてしまう。言葉というものは、 意味を捕らえるための道具だ。意味を捕らえてしまえば、もう言葉には用はないのだから、忘れてしまえばよい。私は、 言葉を忘れることのできる人間を見つけ出して、共に語り合いたいものだ。』

私の思いを相手に届けるためには、相手に届けるための「乗り物」が必要で、それが言葉であり、あるいはさまざまな表現であります。

私たちは自分の思いを相手に伝えたいと思うとき、思いを言葉という舟に乗せて、相手の元まで届かせるわけですが、 ときどき届いたものを「舟ごと」かついで持ち運ぼうとする方がいて、そんなとき私は「いや、それじゃ重くて大変でしょう。 舟は別にどうでもいいんですよ。大事なのは積荷ですから」と声をかけたくなってしまうのです。

舟は自分から相手へと渡すときには必要な乗り物ですが、渡れば何も一緒に持ち運ぶことはありません。

陸に上がって、そんな重い物をずるずると引きずっていては、やがてはそれが枷となり、身動きが取れなくなってきてしまいます。

だから私は「縛られないで下さい。私の言っていることなんて忘れて下さい」と繰り返し訴えるのです。

言葉はその場その時だけのもの。言葉は舟であって、うつわであって、仮のカタチであって、それそのものではありません。だから積荷が届いたのなら舟は捨てて欲しいのです。舟は渡すときに要るだけのもの。

「誰かに伝えるときにまた使えるから」なんて思わずに、舟が必要になったのならば、そのつど新しく「あなたの手で」舟を造りあげて欲しいのです。それが結果として「私の舟」にそっくりになったとしても、それはもう「あなたの舟」であって「私の舟」ではありません。

あなたが「私の舟」を捨て、「あなたの舟」を造りはじめて、その舟でいつか私の送った積荷を、それを必要とする者のいる対岸に送り(贈り)出すのならば、これほど嬉しいことはありません。

「あなたの舟」が「私の舟」に似ていようが、まったく違うものであろうが、そんなことはどうでもいいのです。

あなたが「あなたの舟」を造り、なおかつそれを当たり前のように手放して送り出せるということが、それが何より一番嬉しいのです。

変わってゆくモノ、変わらないコト。

だからというわけでもありませんが、「私の舟」は弱くありたいと思っています。届いた瞬間、その衝撃で壊れて沈むほどに弱くありたいのです。

急いで積荷を揚げなければ、舟とともに沈んでいってしまうかもしれないくらいに…。

対岸まで届くほどには丈夫で、陸に揚げられるほどには強くない。署名もなく、設計図もなく、そしてカタチも残らず、ただその一回のためだけの渡し舟。

あなたのためだけの舟。

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