ただ居るということ
ただ居るということは、私たちが思っている以上にけっこう難しいことだと思います。
さして用のない場所で、ただポカンとした時間を過ごす。ただ居るだけ。ひょっとしたらそこにはいろんな人が居て、みんな忙しそうに働いているかも知れない。でもそんな環境の中、ただ居るだけ。
そんな光景をありありと想像してみると、ただ居るということも意外と難しそうだと思えてくるのではないでしょうか。
とくに日本人というのは、そういうときに周りの人に対して何だか申し訳なく思えてしまって、ソワソワしちゃって、つい腰が浮いてしまうかも知れません。
そうやって、ただ「居る」ということができないときに、私たちはどうするかというと、何かを「する」のです。
手持ち無沙汰で、身の置き所がなくて、居心地が悪くて、ただ居ることができない。そんなところにそれでも居るためには、居る意味が欲しい。あるいはただ居るということから目を逸らしたい。
そんなとき、私たちは何かを「する」ことで、その場における自分の役割(居場所)を作って忙しくして、ようやく安心してその場に「居る」ことができるのです。
そのとき、身振りとしては進んでその役割を担おうとするわけですが、半ば止むに止まれずやっていることなので、当人の意識としては必ずしも喜んで行なっているとは限らず、「なんで私がこんなことを…」とかブツブツ文句を言いながらの身振りであるかも知れません。
そしていざ作業が終わってしまいそうになると、居場所がなくなってしまうわけですから、何となく不安になってきて、また何か別の「する」を探し出すのです。
とにかく回避したいのは、「する」が無くなり、ただ「居る」だけの現実が押し寄せてきて、自分の「居る意味(存在意義)」と向き合わなくてはならなくなってしまう事態です。
たしかにそんな茫漠とした虚無に近いモノと向き合うのは、怖ろしいことでもあります。現代人はそのような「畏怖」という感情と向き合うことに不慣れです。そのようなワークを捨ててきてしまいましたから。
私たち現代人は、暇があれば埋めようとし、空き地があれば埋めようとし、無駄があれば削ろうとし、ひたすら余白を塗りつぶして、すべての時間と空間を「意味」とか「価値」とか呼ばれるもので埋め尽くしてきました。
それこそ「必死に」という形容が合うほどに。
そんな現代社会は、ただ「居る」ことに対して厳しい眼差しを向けてきます。生産性とか費用対効果とか、そんな言葉で語られることの背景には、ただ「居る」ことへの咎めの眼差しがあります。
そんな世の中に溢れる咎めの眼差しを内在化してしまった人は、つねに自身に対して「意義のある存在であるべき」ことを要求し、ただ「居る」ことを怖れて、「する」ことに逃げ続けることになります。
つまりそういう人にとって、忙しいことは「アジール(逃げ場所)」でもあるのです。「忙しい忙しい」と呟きながら、手放すことはできないのです。
「私は役に立ってますよ~」と周囲にアピールするための、さらには自分自身に対しても「自分はこの社会にいても良いんだ」と言い聞かせて安心感を得るための、そんな逃げ場所。
自分が何かを「する」とき、それが本当に内発的なものなのか、あるいは先に述べたような「する」ことへの逃げ込みなのか、その判別はきわめて難しく、正直線引きできることでも無いかも知れません。
でも、その身振りがあまりに本人にとって負担となっているならば、どこか無理していることは確かでしょう。
いま改めて思うのですが、私が若い時からひたすらに試してきたいろんなことは、目の前の人に「ここに居て良いよ」と言う、ただそれだけのことだったかも知れません。
学生時代の私の下宿は、鍵などかけたことがなく(というかどこにあるのかも忘れていました)、多くの知人が自由に出入りするほぼコモンスペースでした。部屋に戻ったら知らない人が寝ていて「ここで寝て良いって言われた」なんて言われたこともありました。
大学を卒業してから毎月開いていた集まりは、とくに目的は無く、ただみんなでご飯を作って食べながらおしゃべりするだけの会で、老若男女誰でも好きなようにやってきて、好きなように食べたりしゃべったりして、好きなように帰る会でした。
そして今やっている私の仕事もすべて、突き詰めていけば「ここに居て良いんだよ」という一言に尽きるのかも知れません。
もし不安や焦燥感に駆られて、ただ「居る」ということができなくなってしまったときには、どうぞ夜中に家を抜け出て、河川敷やマンションの屋上など静かなところに行き、そして夜空の星を見上げてみてください。
そうして大きく深呼吸をして、大きくため息をついて、ただポカンと夜空を眺めて下さい。
数億年も前から「ただ在るだけ」の存在が、あなたの「ただ居るだけ」を、きっと優しく包み込んでくれるはずです。