満洲国とソ連侵攻
満洲国は、1932年に誕生した。
今回は、その終焉に焦点を当てていく。
ソ連侵攻概観
1945年8月9日、ソビエト連邦はヤルタ会談に基づき、対日参戦を決定し、満洲国に侵攻を開始した。これは、日本が太平洋戦争で敗色濃厚となり、ソ連との中立条約が有名無実化したことにより実行されたものである(山田正治『満洲国の滅亡とソ連軍の侵攻』、112-115頁)が、これを防ぐ余力は残されていなかった。
ソ連軍の侵攻は、東から満洲に進軍する形で行われ、満洲国の防衛網は瞬く間に崩壊し、関東軍および満洲国軍は有効な抵抗を行うことができなかった。
侵攻開始からわずか数日で、ソ連軍は満洲全土を掌握し、満洲国は事実上滅亡した。ソ連軍は8月9日の侵攻開始から急速に進軍し、8月15日には帝国政府がポツダム宣言を受諾するに至ったが、その間にも、満洲国の主要都市や軍事拠点は次々と陥落した。満洲国の首都であった新京も8月20日には占領されており、満洲国政府は逃亡を余儀なくされた。これにより、満洲国の支配体制は完全に崩壊し、国家としての機能を喪失した(山田正治『満洲国の滅亡とソ連軍の侵攻』、116-118頁)。
ソ連軍の侵攻により、満洲国の住民は多大な被害を被った。日本からの開拓民や現地の中国人住民は、戦火や報復行為により多くの犠牲者を出し、満洲の地は混乱と恐怖に包まれた。
満洲国を手に入れた中国共産党
また、この侵攻は、後の中国東北部における共産主義勢力の台頭にも繋がる重要な出来事だった。ソ連軍は侵攻後、満洲国の主要地域を支配下に置いたが、これらの地域は中国共産党に引き渡された。
これにより、中国共産党は満洲を拠点として勢力を急速に拡大し、国共内戦において有利な立場を確立することができた。満洲での工業資源や日本から接収した武器も、共産党軍の強化に大いに貢献した(佐藤健二『第二次世界大戦とアジア』、205-207頁)。大日本帝国が主導して重工業化が進展していた満洲は、中国共産党の武器庫と化した。1960年代後半まで、中国国内の鉄鋼生産の大部分を占めていたことからも、この事実が窺える。
このようにして、満洲国はソ連軍の侵攻によって滅亡し、大日本帝国の支配下にあった東アジアの秩序も大きく揺らぐこととなった。
「依頼主」と「殺し屋」
ここで、上記の満洲崩壊に至る過程を、以下のように眺め直していただきたい。
1945年2月に行われたヤルタ会談では、アメリカ、イギリス、ソ連の三国首脳が集まり、戦後の「世界秩序」について協議が行われた。この会談において、ソ連は対日戦への参戦を約束し、その見返りとして満洲と南樺太、千島列島の領有権、ならびに中国東北部における特殊な利権を獲得することが取り決められた(ジョン・ルイス・ギャディス『冷戦』、89-90頁)。
ソ連という「殺し屋」は、この「依頼」を実行に移すべく、ヤルタ会談から約半年後の1945年8月9日に満洲へ侵攻を開始した。
この動きは、アメリカが広島と長崎に原子爆弾を投下し、日本の戦意を削ぎつつ、ソ連の地上戦力でのとどめを刺すという戦略の一環であった。アメリカは、自らの犠牲を最小限に抑えつつ、ソ連を利用して日本の戦力を完全に壊滅させることを目指したのである。
ソ連はこの「依頼」を遂行するため、徹底的な軍事力を投入して短期間で満洲を制圧し、アメリカの「依頼」を忠実に果たしたのみならず、ヤルタで取り決められた利益を手中に収めるとともに、アジアにおける影響力を拡大した。
これは、冷戦期においてソ連がアジア地域で強い地位を築く一因ともなった(マーティン・K. ジョンソン『ヤルタと冷戦の起源』、120-122頁)。
参考文献
・佐藤健二『第二次世界大戦とアジア』(岩波書店、1998年) 。
・山田正治『満洲国の滅亡とソ連軍の侵攻』(東京大学出版会、1995年) 。
・ジョン・ルイス・ギャディス『冷戦』、89-90頁。
・マーティン・K. ジョンソン『ヤルタと冷戦の起源』、120-122頁。