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満洲国の農業政策

満洲国成立以前から南満洲に権益を保有していた帝国が、満洲国成立以後に北部や西部の開拓を行うにあたり、満洲国内外において、人口の流動が見られた。これについて論じる。


導入

満洲国における農業政策、特に、農業移民については、満洲国の経済政策の中核を成していた。帝国政府は満洲国を帝国の生命線と位置づけ、大量の移民を送り込むことを計画した。日本の経済的・軍事的基盤となることを目指したのである(東亞研究所, 1943, p. 45)。

漢人農民について

まず、漢人農民に対する政策について述べる。
満洲国の成立以前から、漢人は満洲地域に多数居住しており、農業に従事していた。帝国の農業移民政策が進行する中で、漢人農民はしばしば土地を奪われ、日本人移民や帝国政府の農業開発プロジェクトのために移住を余儀なくされた。これにより、漢人農民の生活は大きな影響を受け、土地を失った漢人農民は都市部へ流入し、労働市場を圧迫する要因となった(大村, 1985, p. 123)。


朝鮮人農民について

一方、朝鮮人移民に対する政策もまた重要な動向だ。日本統治下の朝鮮からは、多くの朝鮮人が満洲国へ移住した。その目的は、労働力として、特に農業に従事して稲作を行うためだった。帝国政府は朝鮮人移民を奨励し、特に満洲北部の農地開発プロジェクトに従事させた。これにより、朝鮮人移民は満洲国の農業生産において重要な役割を果たすこととなったが、一方で過酷な労働条件や生活環境に苦しむことも多かった(佐藤, 1990, p. 89)。


日本人農民について

帝国政府は、満洲国を帝国の経済的および軍事的な拠点とするため、大規模な農業移民政策を推進したが、その目的は、満洲国の未開発地を開拓し、日本人農民を移住させることであった(東亞研究所, 1943, p. 45)。
帝国政府は1920年代後半から1930年代にかけて、農業移民を満洲に送り込む計画を立案した。この計画に基づき、多くの日本人農民が満洲に移住し、農地の開拓に従事した。彼らは帝国国内の農村部からの移住者であり、農業技術の普及と農地の開発を目的としていた。この移住は日本の農村問題の解決策と見なされていた(大村, 1985, p. 123)。これは、1920年代後半から1930年代前半にかけて起こった世界恐慌と東北地方の大飢饉がもとで、人口の削減と円ブロックの必要性を認識した帝国政府により発案された。
ここでは、帝国政府は、日本人農民を通じて満洲国の農業生産を増大させることを目指し、これにより帝国本土への食糧供給を安定させようとした。しかし、現地の環境や気候に適応することは容易ではなく、多くの日本人農民が困難な生活条件に直面したが、彼らは満洲国の農業発展に貢献した(石川, 2001, p. 207)。この過程で、移住していた日本人農民は、満洲国の開拓地で新たな農業コミュニティを形成した。彼らは帝国政府の支援を受け、農地の整備や農業技術の向上に努めた。またこの間、日本人農民は現地の漢人や朝鮮人と競合し、時には土地を巡る対立も発生した(佐藤, 1990, p. 89)。
このように、日本人農民は満洲国の開発と農業生産の向上に寄与し、同時に帝国政府の経済的利益を追求する役割を果たしたのである(東亞研究所, 1943, p. 45)。


人口流動の構造に関する考察

このように、満洲国の農業政策は漢人と朝鮮人の動向に直接的な影響を与え、彼らの生活と経済活動に多大な変化をもたらした。
ここで重要なことは、当時の帝国政府は、満州国や支配地域の朝鮮やの農村において漢人・朝鮮人に満州への移民を推奨していたに過ぎず、強制移住はほとんど行われなかったということだ。統一戦争後のイタリア、南北戦争後のアメリカ、第二帝国成立後のドイツ、これら各地域でも見られたように、工業化の進んでいた地域と農村部など工業化が未発達だった地域との格差から、人口の流動が起こった。
つまり、満洲国では、比較的平和に統合がなされ、その枠組みの中で、帝国政府やその他民間企業による投資に伴い発展した都市部に農村部から人口が流入するといった形をなして、人口の流動が起こったという点に注目すべきである。


参考文献

・東亞研究所 (1943)『満洲国の農業政策』東亞研究所.
・大村 益夫 (1985)『満洲の漢人農民と日本移民』東京大学出版会.
・佐藤 俊 (1990)『満洲国の朝鮮人移民』岩波書店.
・石川 賢一 (2001)『日本の満洲政策と現地住民』新潮社.

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