学力向上について議論したら、噛み合わない説
24年間、中学校で数学を教えてきました。教員時代、ひねくれた思考で考えていた学力向上について紹介します。
学力向上に対する認識
先生にとって、学力向上は永遠のテーマといえます。本当に多くの先生方が真摯に取り組んでおり、研修や授業研究における研究協議などで白熱した議論になることもあるでしょう。しかし、ここに落とし穴があるんです。
多くの場合、学力を定義せず、それぞれがイメージした学力を基に議論するため、噛み合わない、共有できない協議になっています。
譬えるならば、全員が1つの地図を囲んでいるが、それぞれが考えている目的地を共有することなく、全員が自分と同じ目的地に行くものだ、もしくは、自分の目的地が正しいんだと思い込んで、よりよいルートや交通手段などを議論している状態といえるでしょう。
「学力についてのイメージを共有すればいいのでは」と考えられますが、これがまた難しいんです。それぞれの先生方の経験・成功体験を根拠に持論を展開することになると、対立意見の収集が困難になります。だからこそ、予め、学力を定義することが必要になってくるんですが…
※補足:議論の方向性が定まらないことが問題であって、個人の経験則を否定するつもりはありません。むしろ、尊重したい立場であるので誤解なきようお願いします。
さらに学力向上について考えるためには、学力を定義することに加え、もう1つの観点が必要になります。
それは、定義した学力が身についたかどうかを判断する基準を定めることです。先生同士の判断基準が違ったまま議論しても平行線になるのは明らかでしょう。(例えば、方程式がきちんとした手順で解けることを判断基準にする先生と手順よりもいろいろな考え方で方程式を解けることを判断基準にする先生では微妙に話が噛み合わなくなってきます。)
文部科学省「確かな学力」
では、文部科学省は学力をどのように定義しているのでしょうか。ホームページに掲載されているものを一部引用しました。
この定義を基に、学力向上について議論するのもなかなか厳しいものがあると思います。前半部分の知識や技能を身につけるという意味はよくわかりますし、身についているかどうかで学力向上したか判断できると思います。
しかし、後半部分はどのように「確かな学力」が身についたと評価するのでしょうか。
例えば、ある生徒が自分で課題を見付けて解決したレポートを提出したとします。先生は「確かな学力」が身についたと評価しました。文科省の引用文からは問題ない判断だと思いますが、ネットでコピペしたものだったらどうでしょうか。
A「コピペでも自分で努力して検索して内容も理解しているからOK」
B「コピペはだめだ」
極端な例ですが、このように2つの判断基準に分かれた場合、この生徒の評価は正反対になってしまいます(まぁ、Aはあり得ませんかね…)。
また、「よりよく」問題を解決するとはいったいどんな状態のことをいうのでしょうか。
算数の教科書で小数の計算を学ぶとき、
0.3+0.4を10倍して3+4=7と計算した後、1/10倍して0.7に戻すという考え方があります。私個人としては、〔小数は小数の世界で考えてほしい〕〔小数の世界の理解を深めてほしい〕と考えているので、このような小数の計算は「よりよい」と判断したくありません。あくまで私の主観であり、この判断が正しいかどうかはわかりませんが…。
このように曖昧な表現で学力を定義すると解釈が広がり、「よりよく」などの言葉の意味を説明するために文科省や大学教授などが別の表現を用いて分厚い冊子を作成し、またそれを説明するために別の表現を用いるという無限ループに陥ってしまいます。言葉の変換だけなので、最終的には個人の主観によって確かな学力が身についたか判断するしかなくなってしまうでしょう。
学力向上には客観的な判断基準が必要
「よりよく」という曖昧な表現を評価する基準が先生個人の主観に頼らざるを得ないとなると、そこには偏りが生じる可能性があります。
そこで学力について曖昧な表現であっても定義したのであれば、主観ではなく客観的に評価できる基準が必要になってきます。客観的な判断基準であれば、誰が指導者であっても公平性を担保できるので、評価の信頼性も上がるでしょう。
私の学力向上のとらえ方
私が教員時代、中学生に対して次のように学力を定義し、学力向上の判断基準を定めたものを紹介します。
【学力】:〇〇県公立高校入試問題で平均点を取ることができる力
【判断基準】:テストの得点
今までグダグダ理屈こねまくってきて、最後にありきたりな内容かと拍子抜けされた方もいると思います。また同じように考えている先生もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれを主軸において授業をしていました。もちろんこれが100%正しいとは考えていませんが、曖昧さがなくなり具体的な目標を定めることができ、学力向上の有無を客観的に評価できる1つの例だと思っています。
このように定義すると「テストだけがすべてではない」「テストでは推し量ることのできない能力がある」などの批判的な意見があることは十分承知していますし、私もその通りだと思います。しかし、「テストで判定することができる能力がある」ことも事実なのではないでしょうか。つまり、私の考えは全体ではなく、学力向上の一部分への取り組みを表していると考えてください。
そもそも、学力向上を判断する際、文科省は全国学力状況調査というテストを行い、学力の国際比較もOECDによるPISAテストなどを活用しています。高校の学力検査だけが学力向上の判断基準にならないという理由はないでしょう。
さらに、公立高校入試問題レベルを学力向上の目標に設定すると以下のメリットが考えられます。
学力を言葉の変換で定義しなくても、問題をみれば求められている学力が具体的にわかる
出題者は学習指導要領に則って作成しているので、正答できるかが学力向上の判断基準としてよい
具体的な問題があるから具体的な目標を定めやすい
生徒の需要(高校に合格したい)と教員の供給(高校入試で得点できる力)が一致しやすい
実際、私自身、以下のように高校入試について分析しており、YouTube「どこでも数学KAORU CHANNEL」で公開しています。(生徒を対象とした分析のPART1です)
素人分析なので的外れなところもあると思いますが、彼を知り己を知らばなんとやらで、具体的なエッセンスを授業の中に組み込むことができます。
逆に、考えられるデメリットは
出題者の主観に基づいて作成される高校入試問題で学力が測定できるという根拠が希薄(全国学力状況調査も同じですが…)
特定の高校入試問題に対応できても、まったく別種の問題に対応できない可能性がある
知識に対する本質への深化より活用の深化に偏ってしまう可能性がある
などが考えられます。学力をどのように定義しても完全なものは存在しませんが、生徒と教員の需要と供給が一致するだけでも価値はあると思います。
私の理想的な学力向上
なんやかんや述べてきましたが、やっぱり理想をもつことは大切です。私の理想的な学力向上は「学習の転移」ができる状態です。
私が教えていた数学をきわめることによって、英語や社会などの他教科への理解促進につながったという生徒は、残念ながらほとんどいませんでした。いろいろと授業で試行錯誤しましたが、志半ばで教員生活を終えることになったのは少々心残りです。
現役の先生方、理想をもちつつ、客観的な基準で評価できる学力の定義をしてみてはいかかでしょうか。
以上、ひねくれた私の考察でした。