ロンドンでの船出【八〇〇文字の短編小説 #10】
その夏の夕方、スチュアートはユーストン駅で列車を降りた。ロンドンの空気に包まれ、少し高揚した気分になる。バーミンガム・ニューストリート駅から二時間ほどの小旅行は、新たな挑戦の序章だった。
大学を卒業する前にバーミンガムの小さな広告代理店で雑用から始め、四年かけてなんとかコピーライターを名乗れるようになった。もう一つ上のステージで自分を試してみたいと、ロンドンの広告代理店でさらにキャリアを積む道を探った。口利きをしてもらったのは大学時代の友人のトムだ。ロンドンの映画配給会社で働いている。トムの人脈をたどり春先に面接をして、パークライフ・エージェンシーで働くことが決まった。
スチュアートは駅のすぐ外にあるベンチに腰掛け、スマートフォンを見た。迎えにきてくれるはずのトムから「行けない。仕事が終わらない」というメッセージが届いていた。
スチュアートは腰を上げ、駅の壁の近くまで行って、エンバシーに火を点けた。トムが来ないことを知り、いきなりつまづいた気がした。イヤフォンからはライドのアルバムがシャッフルで流れている。「Dreams Burn Down」の泣き声のようなギターを聴きながら、ライドは父親から教えてもらったバンドだったなと思い出していた。父親のニールは去年の夏、脳卒中を起こしてこの世を去ってしまった。
もう少し休もうとベンチに戻ると、スチュアートは山高帽がないことに気づいた。父親の形見としてもらったものだ。家族で出かけるとき、父親が必ずかぶっていた黒々とした山高帽には、父親との思い出が無数に詰まっている。
電車の中に忘れてきたのかもしれない。頭が真っ白になったスチュアートは駅員に事情を説明しようと急いで立ち上がる。隣に座っていた女性にぶつかり、女性が持っていたアイスコーヒーが勢いよくスチュアートの胸にかかる。ひやりとした感覚に襲われ、スチュアートはあまりにもやるせない船出だと気が重くなった。
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