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寂しさからの気づき


例えば
パートナーが欲しい
子どもが欲しい
お金が欲しい
いい仕事をしたい
成功したい

などなど
望みを持つとき。
そしてそれが叶わないとき。

孤独からの寂しさが奥に隠れていることがあって
その寂しさから、姿を変えて欲求として現れることがあるなあと思います。
私はいつもそうでした。



わたしは小さな頃から寂しがりで、ひとりになると
ぎゅっと胸が痛いようなそんな感覚によく陥っていて
いつも
買い物から帰ってきた母にしがみついていた記憶があります。


母がいないと寂しいのだろうと思っていたのですが
母がいても、何となく続く胸のぎゅっとした寂しさがあって
漠然と「これは何だろう??」といつもいつも思っていました。


大人になって
たくさんの人の中にいても
みんなと笑いあっていても
ずっとあった寂しさ。


何年か前になってようやく輪郭が見えてきました。


それは
肉体で個として生きているからこその、


絶対的な大きな何かを共有できないという、
「違い」として感じる感覚
肉体・個性という違いがあるからこそ感じる感覚


なのだなと、
ある出来事を通してパチリとハマりました。


その、絶対的な大きな何かというものは
魂としての源であった時の記憶だったのだろうなと思います。


ずっと一緒で同じだったのに
なぜ違うんだろう、どうして分かり合えないのだろう


それがいつも体の中にあってぎゅっととどまっていた。


でもこれは
肉体を持っているからこそ感じるもの。
肉体があるからこそ持てる豊かな感覚の一つ。

寂しさは、肉体を持っているからこその豊かさだった。


このことに気づいてから
人との違いをすんなりと受け入れられるようになって
誰かと共通した概念を手に入れて、誰かと同じようにいよう、という必死な願いは無くなりました。


何よりほっとした気づきでした。


これはわたしの生きる芯になり、自分というものとの対話の軸になり、
どうしたって「わたしでしかない」のだからと、個を受け入れ、寂しさを受け入れて、結果他者も受け入れられるようになりました。


寂しさは
集団の中で、みんなと同じようにいることができないから起きるもの、
というものではなくて
豊かさだったのだと気づいた時、人生での願いが自然と変わって、無理のないものとなり、人生も変わっていきました。


たまにどうしようもなく寂しさに襲われることは、今でもあります。

そんな時は寂しさに抗わず、寛ぐようにしていると心にふっと広がりが出てきます。

そんな私の人生が変わったきっかけになったお話でした。

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