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2023年4〜6月を振り返る ・ 映画版


4〜6月って季節で言うなら「春期」だと思うんですが、5月の時点で既に「真夏日」があったりするのはどういうことか……本当に暑いわ大雨は降るわでやってられない日々ですが、皆様いかがおすごしでしょうか。

そんな訳で4〜6月に映画館で観た映画の感想。並びは観た順。
観たこと前提でネタを割っているので、未見の方は読まれる際にご注意ください。
今までの他映画感想はこちら↓から。




『メグレと若い女の死』

あの幅のベッドであのボディとよく一緒に寝られますね奥さん……!(年々メグレ警視の占める空間が膨らんでいく様を定点カメラで撮影してみたい)
メグレ警視シリーズ、子供の頃に何作か読んだとは思うんだけど全く記憶がありません。あまり数を読み進めなかったのは、多分当時の自分には合わなかったからなんでしょうが、今回の映画を見る限りではすごく好きなタイプの探偵です、メグレ警視。広いパリの中で無名の少女を探し出す為、巨大な石をカツカツと細かく削り出していくように、足で確実な証拠を積み上げて結論に到達する。
映画の尺の問題なのか、都合良すぎる展開の進み方もありますが、メグレ警視の一貫した態度がすごく良い。誰に対しても一定の距離と節度を守り、かっちりこころに殻をかぶせて、けれど時々、その表面がほころびてそこから優しさや怒りや哀しみがこぼれ落ちる。

パンフや公式サイトにキャストの情報が殆ど載っていないのがちょっと不満。特に謎の女性・ルイーズを演じたクララ・アントンのデータが全く無いってどういうことか。
彼女が本当に素晴らしかった。巣から落ちて震える小鳥のような大きく潤んだ黒い瞳が、彼女の置かれたすべての不条理な運命を「何故?」とこちらに訴えかけてくるようです。経歴見たらもっぱらテレビ出演が主みたいで、これからいろんな映画に出てほしい。もっともっとスクリーンで見たい。
ベティやメグレがカフェで飲んでるカップがたまらん可愛かった。平たくて浅くて、アメ釉がかかってるヤツ。ベティがメグレ家に泊まった次の日の朝に使ってる、緑と白の巨大なカフェオレボウルも素敵。本場のカフェオレボウルって日本人から見たら小どんぶりサイズですよね。このサイズがすごく良いんだけど、日本ではなかなか見ない。コーヒー飲めないけどこのサイズで欲しい。


『幻滅』

全くの偶然ですが、まさかのドパルデュー二連発。こちらも良い役でした。
まるで耽美派神絵師の手から生まれてきたがごときバンジャマン・ヴォワザン(つよそうな名前)。顎の鋭角度合が凄い。二十年前のチャン・チェン並に鋭い。
ルイーズを演じるセシル・ド・フランスが好みど真ん中で、冷静になると結構えげつないことしてるしまあ愚かではあるし、にもかかわらず何とも言えん気品と色気。近くにいたら、多分自分も身もこころも捧げてしまうと思います。なんという配役の妙。
ルストーとナタンが、前者はちょっとよろしくない友で後者は真の友、みたいに対比された存在として置かれていますが、リュシアンの詩集をルストーが何度も一緒に売り込みに行ってやる姿はなかなか良い奴じゃないのと思いました。まあ大麻に目覚めさせたところはいかんともしがたく悪ですが……。
それにしても、あの詩集をつくるシーンが本当に素敵でした。水色のリボンを結ばれた、すずやかでリリカルなその姿。あんなものを贈られたら、そりゃきゅんときますわね。パンフレットの中表紙がこの詩集の表紙絵だったのがとてもステキでした。
映画自体はちょっと中だるみ感はあったものの、何せ衣装や美術が大変に美しい。眼福でした。



『若き仕立て屋の恋』

上の『幻滅』感想で書いた「顎が超鋭角のチャン・チェン」はこの映画で見られます。本当に本当にとがっている。頭蓋骨どうなってんのかと思う。骨になってもばりイケメンなんだろうなあ。
骨もいいけど声もいいですよね。一番好きなのは一度目の「覚えてます」の声。この声とラストカットのあの表情! 心臓がぎゅうっとします。

皆様ご存知のように、2005年に『愛の神、エロス』として公開されたオムニバス三話の内の一話目をロングバージョンにした作品。もうなんか懐かしすぎて懐かしすぎて、気持ちがぴゅーっとタイムスリップしました。
記憶と発掘したパンフ(今回はパンフ作成してないそうです)に記載のシナリオによると、『エロス』の時のバージョンにはちまき作成シーンと食べてるシーンはありませんでした。あと、バックハグもあんなに長くなかったような?? しかしこの世で一番エロいちまきのつくり方ですね(笑)。
当時、せっかく『The Hand』なんだからもっとバリバリに手を見せて欲しかったなあ、と思ったものでしたが、このちまきシーンがあったら大分満足できてたかも。チャンの服づくりシーンでもっともっと手のアップが欲しかった、と思った記憶があります。
コン・リーはさすが判ってて、当時のパンフのインタビュー写真でもちゃんと手を見せるポーズを取られてました。チャン・チェンその辺はまだ未熟か(笑)。しかしコン・リー、指長っ……!

美しい手よ……!

それにしても全編通してコン・リーの美貌が炸裂しすぎ。「私の姿を見て、もうドレスは着られない」言うんでよっぽど恐ろしい伝染病にでもかかって大変な見た目になってんのかと思ったら、やつれてはいるけど全然キレイやんコラ(笑)。最初の例のシーンの時の、顎から首、鎖骨へ繋がるラインがもう……!!!

今回観ながら「あれ、確かサントラ買ったような買ってないような……?」と思い帰宅して探してみたら、あった。しかも何故そんなにも記憶が不明瞭だったのか、見つけて判った、サントラ持ってたのに何故かiTunesに入れてなかった。もう昔すぎて理由は全然判らない。
聴いてみたら『Concerto Alevta』(バイオリンのクラシックぽい曲)の「Firm mix」てのがあって、曲と一緒に例のあの「女を知らない見習いへの手ほどき」の際の音声が、真っ最中のところから扉バーン閉めて階段どかどか駆け降りていくところまでバッチリ入っていた(笑)。こんなもん聴かされてどうしろと。

チャン・チェンの顎の鋭角ぶりがよく判るサントラジャケット



『エンパイア・オブ・ライト』

メガネくん、勘のいい子だな……!
「映画館が舞台」「主役がオリヴィア・コールマン」てこと以外何も知らずに行ったので、見始めてしばらくは、てっきり「ぼろくなった映画館をはみだし者二人で立て直す話」だと思ってました。
と言うか、すごく立て直してほしかったんですよ。あの閉鎖されたスクリーンとレストランの美しさ! 鳩に占領させとくのもったいなさすぎじゃないですか? スクリーンは閉鎖したとて、レストランはあの眺めの良さを売りに頑張れば充分続けられたんでは。
それにしても本当に惚れ惚れするよな映画館でしたね。映写室ステキだ。ノーマン好きすぎる。
ヒラリーが「貸切王」になって映画を観るシーンが最高。こんな風に映画を観せるって、映写技師冥利につきるよね。あんな言われ方したら、そりゃもう上映せずにはおられんでしょうよ。『チャンス』未見なので観てみなくては。

ヒラリー、前も休職してるようですが、こういう職場に迷惑かかる系の病み方をした人に対しての周囲の受け入れ度合が群を抜いている。プレミアのアレの後、飛ばされるのが彼女じゃなくセクハラ支配人ってすごくないですか?
そんな寛容さを持つ従業員ばかりを見た後に、あの排斥集団は本当に気分が沈む。しかしあれ、もっと昔に白人の金持ちが黒人を奴隷にしたり隔絶したり、というのとは種類が違う気がするんですよね。多分あの連中は、満足な仕事ができて満足な収入があったら、別に黒人が周囲にいたって気にも止めないんじゃないかな。自分達の境遇に大きな不満があるから、それを自分達よりも弱い方向に向けて発散しているように見える。勿論それだって100%アウトなんですけどもね。

ヒラリーとスティーブン、ふたりはどちらも周囲から搾取され続ける人生を送ってきた人で、だからこそこころが通じ合いつかの間寄り添いあった。花火のシーン、素晴らしかったですね。進学する彼を見送り、駆け寄ってハグしあうシーンも素晴らしい。
多分スティーブンはこの後、別の誰か(ルビーとは限らない)とつきあい結婚し家庭ももっていくんでしょうが、あの花火の夜、あのハグの瞬間はきっと一生、こころから消えないのだろうな。
スティーブン母・デリアを演じるターニャ・ムーディの声が超好み。この深くしっとりと低い極上のベルベットのごとき声よ!



『TAR』

まさかのホラー映画……!(しかも上質の)
ホラー苦手な人、さぞ意表を突かれて恐ろしい思いをしたに違いない。正直「ホラー映画です!」と銘打ちながらこれよりずーっと怖くないホラー、山程あります。
あの「音」が異常に気になるところ、怖かった……そうそう、寝る時ってなんであんなに些細な音がぶわーっと意識にひっかかってくるんでしょうか。公園での悲鳴も怖すぎる。

そういう自分も「パワハラ強めの天才指揮者女性の話」くらいの前知識のみで他の情報は極力入れずに行ったので、いろいろと面食らいました。
まずそんなにパワハラっぽくなかった、と言うと「いやいやいや」言われそうですが、そもそも想像してたレベルが『セッション』だったのよ(笑)。少なくとも「楽団のリハ指導シーン」では一切、高慢さも傲慢さも感じませんでした。自分が楽団員だったらこの人の指揮で演りたい、と心底から思います。素晴らしい指導だった。
講義で学生をたしなめるところも「そらリディアが正しい」と思ってしまったし。イヤこれが市民講座の生徒さんとかならまだ別ですが、ジュリアード音楽院に指揮を学びに来る人間が「白人の音楽家は嫌い」ではお話にならんでしょうよ。クラシック全滅やないかい。20人子供がいた、言うけど別に妻以外の外の女に産ませたりした訳でもないのに(最初の妻の死後に後妻がひとり)。
「プロの指揮者は楽団員に評価をされる、その時にあなたはどういう視線で評価されたいのか」なんて素晴らしい指導だと思う。まあ最後ちょっとキレ気味になりすぎ感はあるものの(笑)。
オルガは間違いなく好みのタイプなんでしょうが、ソロに選んだのは純粋な音楽評価だと思ったし。もし動画見て今いちだったら選ばなかったと思うんだよ、リディア。
ただ、レズビアンと公言してる権力者側の人間が、立場の弱い若手女性を仕事場のアパートに呼んでふたりきりレッスンしたりニューヨークに連れていくのは完全に私情。それはアウトでしょうよ。

この「音楽に真っ当」なところと「私情バリバリ」が超高度&同濃度で並び立っているのがリディアの複雑さ。「私情」だけを抜き取ると確かに「傲慢な権力者」なんだけど、同時に「作曲者の魂に寄り添い問い続け、音で表現されている『何か』を引き出そうと全力で向き合う謙虚さ」も確実に持っている。
ペトラに向ける愛情も本物だと思ったし。養子にしてからの年月が定かではないけど、ペトラ側もあれ間違いなくシャロンよりリディアが好きで信用してるよね。深夜に金切り声あげても起きないシャロンと飛び起きて駆けつける(そして「足持ってて」なんて頼みに腹立ちも苛立ちもせず優しく対応する)リディア。完全に引き離したのは果たしてペトラにとって「良いこと」だったのか。
一言で言うと「ひとつの面しか持たない人間は存在しない」。ものすごくありきたりで昔から言われている通り、「誰にでも良い面も悪い面も同時にあるよ」てだけのことなんですよね。「ひとつがアウトなら他九十九もすべてアウト」となる昨今の傾向の方がおかしいのだろう(勿論、当人が「アウト」であることに自覚も反省も無いなら排除されても致し方はないけど)。
現実でも、権力で暴力(肉体&精神)をふるった人から権力をとりあげるのは当然だけど、創造を、創造したものを披露することまでもとりあげるのは違うよね(勿論、披露されたものを拒否する権利は誰にでもあります)。

ラスト、「マッサージ店」で嘔吐をもよおすのは「イヤそんな簡単にいくかな」とは思いましたが、その後が素晴らしかった。
曲で「ん?」と思い客席映って「モンハンだ!」(プレイ経験は無いけど曲はいくつか知ってる)
もうテンションダダ上がりしました。そこにかぶさるイベントのナレーションがまた素晴らしい。すごい多幸感。これは間違いなく明るい前向きエンドです。
欧米の「権威あるクラシック界」がそっぽを向いた彼女を受け入れた新しい世界。人種なんぞ超えたキャラに扮する人々の並ぶ中、音楽そのものに、それを奏でる人や聴く人に貴賎なし。音があれば大丈夫、ここからですよ。

……それにしても映画やドラマのストーリーの中で、権力をもったそれなりの年齢の人(男女問わず)が異性愛・同性愛どちらにしても「ちょっと才能がきらめいて見える若い相手」にちょっかい出す時って、なんで対象者はほぼ全員「無礼で粗雑で下品」なのか(笑)。才能があって品も良い若手はいないのか。特に芸術畑の話でこの傾向が顕著に思う。
芸術界で頂点にいくというのは「極めて洗練された世界」にいる時間が長くなるということで、こういう粗野さが魅力に映るのか。このパターンほんとよく見るけど、自分は「イヤいくら才能あってもあんなんじゃ恋愛感情わかんわ……」て感じることが殆どなので、正直気持ちがよく判らない。



『ブラフマーストラ』

冒頭のシャールク=モーハンがかっっっこ良すぎてもう……!
落ちた、イヤでも落ちただけ、亡くなったとは限らぬ、と自らに言い聞かせていたらアレだし(涙)。そうか、じゃもうこれでシャールクの出番は終いか、と思っていたら第二部「デーヴ」!
てことはきっと過去話、ならば間違いなく若き日のモーハンが出ますよな? そうですよな? シャールクならば三十年前の話でもつるっと素の顔でできますよな?
あー、どうか日本でも二部三部まですべて公開されますように……!

イーシャを演じたアーリヤー・バットがとにかくウルトラキュートな女神級美しさで、そりゃランビール・カプールも結婚しちゃうよね。判るその気持ち。
だがあの状況で愛の歌を開始するのはどうか(笑)。そりゃこんな相手と船旅なんかしたら楽しいに決まってるんだけど、ちょっと観光成分多すぎですよ。さっさと探しましょうよ。と言うか、こんな公人だったらメールで連絡とれたんじゃなかろうか。
でもってこんなシリアスな話をモンキーバナナ食べながら聞くんかい>シヴァ
悪の力で操られちゃってるだけの村人を躊躇なく殺っていくスタイルにもちとビビりました。いいのかそれで。長いこと協力しあって暮らしてきたのだと思うんだけども。
そしてそんな大事なカケラ、投げ上げて落ちてきたなら即拾おうね! イーシャとジュヌーンがびちゃびちゃの草の上を「メガネメガネ」状態で探してたのが、あまりにもラストバトルの場にそぐわない間の抜けっぷりでもう……(笑)。

と、ちょっと謎な演出もありつつもでも全然許容範囲。好きである。
特に自らの火の力、それは愛でスイッチが入るのと同時に周囲を焼き尽くす破壊性からシヴァにとっては恐怖でもある、その為になかなか思うようにコントロールができない。そんな彼に向かって「愛と恐怖、どちらを選ぶ」と問うグル(バッチャン痺れる程カッコいい)。「常に愛を選びます」と答えるシヴァに、「では恐怖と向き合いなさい」。
ここまではすごくよくあるパターンで、てっきり「愛の力で恐怖を克服するんだ」的に話が進むのかと思ったら「恐怖を愛するんだ」。
うわぁ、と思いました。乗り越える、克服する、それは恐怖を自分の中から「消し去る」こと。でも「自らの中にある恐怖をも愛して大事にしなさい」てことなのね。シヴァにとってのすべての原動力は「愛」。おそらくこれが第三部においての最終決戦でもきいてくるんだろうな。
デーヴとアムリタの子供、てことで、てっきり今回のラストバトル内で水の力にも目覚めていくんかと思いましたが、火だけで終わりでしたね。三部で水にも覚醒するのか、あるいはイーシャが水の力使いになるのか。
そして、テンジン……生きていて、テンジン!!!



『赦し』

映画を観ていて、「整合性が無いな」と思うことは割とよくあるんですね。
それは大抵、「物語の為に設定を都合している」から起きることなのですが。
でもそれがすごくひっかかる時と全然平気な時がある。
前者、ひっかかる時ってのは、「自分も同じ仕事をしてるがあれは有り得ない」とか「大人(子供・男性・女性etc.)はあの状況であんなことしない」とか、そういう「個人の事情・属性」が大きく影響してることが多いように思います。
で、後者、ひっかからない時ってのは、「感動が勝った時」。感動は理屈を押し流すのです。
テーマがきちっとあって、それが間違いなくこちらに届き、かつこちらの個人的嗜好にズボっとハマった時、理屈はどうでもよくなる。「この話ってココもソコもアソコもヘンだ、でもそんなんどーだっていい、これがこんなに素晴らしいんだから!」ってなっちゃえる訳です。
逆に、自分の個人的属性とは全然関係ないのに「どうしてもひっかかる」てなる時は、大抵そこがハマらなかった時なんですよ。ちょっとの整合性の無さは気持ちを波に乗せることで押し流してほしいのに、気持ちを上手く乗せてくれない、そういう映画はやはりあります。

……と、長々と書いている通り、自分はちょっと乗れませんでした。
理由はいくつかあるんですが、まず最初に主役の尚玄さんの演技が自分にはちょっと苦手だったこと。セリフの無いシーンでは気にならないのに、喋るとなんか合わない。どう言うのか、舞台の演技とドラマや映画の演技って違うと思うんですが、舞台っぽい喋り方に聞こえる。節回しがなんか独特な感じ。
そこで上手く入り込めなかったので、そうなると次から次へと細かいことが気になりだす。そんなダメ生活送ってる人があんな綺麗にヒゲ整えられんやろ、とか、酔っ払いの小汚さ感がゼロだとか(笑)。もっとドロップアウト感が欲しかった。部屋も、単に酒瓶が多く出しっ放しになってるだけで、「荒れた生活感」てのがほぼ無かったし。

そもそも7年前にいじめの事実が全く明らかになってないのがすごくヘン。
未成年を懲役20年に処す、てものすごいことで、相当の捜査が行われた結果だと思うんですよ。その時にクラスメイトの誰ひとりとしていじめの話を言わなかった、て有り得ない。
でもってこの事実、つまり「娘を殺した理由が全く判らない」ことに、当の両親が苦しんでる感じが殆どしない。勿論失ったことには苦しんでるけれども。
人が突然巨大な理不尽をくらった時に、「それが何故なのか判らない」苦しさはもう筆舌に尽くし難いものだと思うんですよ。なのにそこを執拗に掘ろうとした様子が全くない。自分が親なら、クラスメイト達につきまとってでも彼女の普段の様子を聞き出して原因を探ろうとしたと思います。

それからどう見ても完全に毒親である夏奈の母親、更にシングルマザー、あの人がどうやってそんな、過去の印税があるとは言え男性ひとりが何年もろくに働かず酒かっくらって暮らせるくらいの賠償金(しかも母親と半分こした上でのその金額)を払えたの……しかもその後自殺って。ものすごく誠実で娘想いで被害者想いで責任感も強い人じゃないですか、それ。でも夏奈の回想シーンの母親、全然そんなことしそうにないんですが。

MEGUMI夫婦はどちらも良かった。まるで自分を外界から守るように、ぶ厚くきっちりとコートやマフラーまで着込んだ姿が目に残ります。
藤森慎吾さんって前々から思ってるんですがいい演技しますよね。特に今回のような、「根はいいヤツなんだけどちょっと無神経」なキャラやらせたら絶品。そのどちらにも完全に振り切ってはしまわない、針がゆらゆらゆらゆら、どっちつかずに揺れている感じが本当に上手いです。
松浦りょうさんも素晴らしかった。この見通せない感じ。弱さとつよさの拮抗感。とても良い。
弁護士や母親と会う時、アクリル板にどちらかの顔が映るシーンが多かったのに、父親と直接対面した為にそれが見えなくなったのが印象的でした。当人同士にとってはお互いをへだてる物をなくしてしっかり対峙しているのに、見てるこちらからは「話してる側と聞いている側の顔を同時に見る」ことができなくなって、一気に判らなさが深まる。その感覚が何とも良かったです。



『ウーマン・トーキング 私たちの選択』

えっ、2010年!???
もうドびっくりしました。前知識、「麻酔かがせて暴行が日常的に行われている村社会で、女性達が今後どうするかを話し合う」てだけだったので。てっきり20世紀初頭くらいの話だと思ってました。しかも実話ベースって。恐ろしすぎる。
ちなみに実際の事件の詳細はこちら。映画よりも悲惨……。


だがどうもやはり、キリスト教信仰の無い自分にはちょっと飲み込めない塊みたいなものがあちこちにある。ここはもうしょうがないのだろうな。日本文化の知識の無い欧米の人がいきなり『忠臣蔵』見たって「えっ、意味不明……」と思うであろうのと同じで、あの感覚は自分には距離がありすぎる。
そもそも「信仰の為に文明をここまで拒絶する」て発想が日本人にはほぼ無いよね。集団で山奥で暮らしてたりする新興宗教の団体だって公式サイト持ってたりするし、事務所にテレビや電話くらいあるだろうし。たとえ信者でも幹部とかの偉いさんは普通にパソコンやスマホ持ってる訳だから。集団の全員が断絶、てのはなかなか。

まあ要するに最も大事なことはたったひとつ、「正しい教育」なのね。それは判る。性別問わず、子供に正しい教育を施すことで世界は変えられる。
マリチェ役のジェシー・バックリーと言えば『MEN 同じ顔の男たち』ですが(TVで見たけどあまり自分には合わなかった)、あの「同じ顔の男がばんばん増殖するシーン」ってつまり、「加害男をこの世に生み出すのは加害思考を持ってる過去の男達」てことなんだよね。本来人は誰もが「女性」から生まれるのに、それを完全に忘却して男性上位に世を見る似たような考えを持つ男達。それを根本から変えていくには、まだその思想を持つ前の子供達に教育を施すしかない。

……とは言え正直、イヤどう考えてもこの後ムリでしょ、オーガストがこの村で子供再教育するの……てか、下手したらリンチでなぶり殺されかねなくない? 「何故止めなかった」とか「何故出ていくことを知らせなかった」って。命まではとられなくても、この後に彼に子供の教育、この村の男達が任せる訳がないわ。
オーガストは一緒に連れていくべきだったよ。経過はあのノート残しときゃいい。それで道中、女達や子供に文字を教えればいいのに。まあかろうじて文字だけなら連れていった年少の男子が教えられるかもしれないけれど、どう考えてもちゃんとした教育が近近に必要なのって、村を出て新天地を見つけて自活していかなきゃならない女子供の方だ。
まあでもそもそも、村から出ていく道なんてそう何本もないだろうし、あれだけ一度に馬車が走ったら轍の跡も追いやすいだろうし、あっちゅう間に見つかって連れ戻されそうだよね。ああ。

そして最後に、出ていきたくない息子を麻酔で眠らせ、斧を掴み銃を受け取って旅立つマリチェにぞうっとする。これは暴力で意思を封じ込める男達と大変近いものがあるのでは?
「システムに問題があるんだ」「つまり加害者もある種の被害者」「だから誰も傷つけず平和に離れたい、出ていくことは逃げではない」と新世界へと旅立つ、その一団の中に斧と銃を持った彼女と無理やり連れ出された13歳の息子がいる、というのが何だか一点大きな染みのようで恐ろしい。
オーナが大変美しく、知性も人格も優れた人として描かれていたけれど、乱暴されて孕んだ子供、愛せず里子に出しても中絶しても、それは全くその女性当人の罪ではないですからねー。

パンフで繰り返し監督さんが言ってるように「寓話」だから仕方がないものの、「父親」「父性」というものが一切描かれないのも気になる点。大人の男は「理解あるよそもの」であるオーガストと、遠いシルエットでしか映らずセリフもなく、だが大酒飲んで家族をぶん殴るクラースだけ。
男性はなあ、観ててしんどいだろうな。まあ徹底して虐げられてきた女性の立場を皮膚感で知れ、そのしんどさは長年ずっと女性が強いられてきたものだし今もこうしてそれを背負っている女性達がいるんだ、ということで正しい描き方ではあるんでしょうが。

ミープちゃんがかわいくてかわいくてもう……あの賢そうなおデコ! ラブリー!!
紐を複雑に編み込んだ髪もかわいい。オーチャ&ナイチャ(激ウマの絵、役者さん当人が描いたのだそうな)が互いの髪を編み込んだ姿が尊くてもう……!(涙)



『コロニアの子供たち』

意図した訳ではなく全くの偶然なのですが、『ウーマン・トーキング』の後にこれを見るとは……。
外部からの情報を極力遮断した閉鎖空間で、特殊な信仰形態を作り上げて暴力と搾取で権力を握る。それが21世紀直前まで堂々と続けられていた、そして今もまだ完全に解決したとは言えない、遠く海や国を隔ててもよく似たこの状況。暗澹たる気持ちになります。
ラストの字幕で「2010年にパウル・シェーファーが亡くなるまで続いた」てあってもう本当に『ウーマン・トーキング』だ、と思いましたが、実際は1997年に少年への性的暴行で起訴されているそうですね。でも逃げた。2005年にアルゼンチンで発見されて、チリに戻され有罪となって2010年に獄中死したそうですが、パンフによると現在は施設名を変えリゾート施設として運営されていて、トップにはシェーファーの側近がついているとか。何という。

何が恐ろしいって、「ファーストレディ」があの場にいるってのがもう。ズブズブじゃないですか。
一体なんでまたそんな、チリのトップレベル偉いさんまで食い込んでるのか、寡聞にして「コロニア・ディグニダ」について全く知らなかったので、帰宅後調べてみたら映画以上に実態がひどくて暗澹さ更に100倍。
実態は勿論、映画での描写だけでもナチス的「支配側より圧倒的に人数の多い被支配者側をいかに効率的に圧倒的に従属させるか」能力が炸裂していて本当に気分が悪い。
特に気持ち悪かったのが脇の下を嗅いで「悪魔の匂いがする」てヤツ。
純粋に気色悪いし、一般的に誰でも脇の下なんてある程度匂いがあるものだし(どう見ても毎日風呂に入ったりしてないこの環境ではなおさら)、ストレスで汗がねばっこくなれば匂いはますます強くなる。でもそんな知識の無い当人は、自分の脇から漂う匂いに「本当だ、自分には悪魔が憑いている、匂うんだから確かな事実だ」と絶望する。心底イヤなやり口です。

パンフ、史実や現状の詳細があってとても良かったんですが、キャストはもっと詳しく載せて欲しかった。ルドルフやピアノ担当の子(役名忘れた)の詳細が知りたかったわ。



『青いカフタンの仕立て屋』

だがあの色で無地の生地を選び、それに金糸のみ、他の色を一切使わず刺繍だけでつくらせた区長の妻、性格は悪いがセンスはずば抜けて良いのでは(笑)。痺れる出来でした。
ミナを演じたルブナ・アザバル、もともと細いのに更に痩せ細っていってもう本当に大丈夫かとハラハラしました。しかも単純に痩せてやつれたというだけでなく、動き、服の脱ぎ着やベッドに座って肩が丸まり猫背になった体勢、息づかい、それ等全身すべてがこの人が「死にゆく人」だということをこちらに実感させる。すごい演技力です。

主要人物3人誰もが、「100%の人」ではなく、どこかしら欠けている。その欠けたかたち同士でやがてゆっくりと支え合っていく姿がたまらない。
ただどうしてもミナが夜の部屋にひとりで苦しんでいる様が辛くて、「ハリムお前もう少し風呂屋に行くのを控えろ」とつい思ってしまった。そこは愛情じゃなくてさ、純粋な肉体的欲求な訳だから、ミナが体調悪い間くらいは自己充足で済ませておこうよ。
それから「あの仕事なら自宅でできるんじゃ……?」と思ってたので、途中ユセフが持ってきてくれて「ああ良かった」と思いました。あれじゃ共倒れだもん。薬代だって稼がなきゃならんしね。
ユセフもちょっと謎だったんだけど、告白して拒絶されて「じゃ辞めます」て、一体何を望んでの告白だったのか。断られたら辞める、ということは相手も自分に気があるという自信があっての告白だったんだろうけど、受け入れられたとしてその後どうする気だったの? ミナに隠れて関係を開始できると本気で思ってたの?? 

まあとは言え実に素晴らしい作品でした。どれだけ体が弱っていっても、決してこころまでは腐らない、それどころか今まで自分に課していた枷を次々破って新しく生まれ変わっていくミナという人間のパワフルさが本当に良い。彼女あってのハリムとユセフだよね。
戒律を破ってカフタンを着せ、ふたりだけで遺体を墓場に運ぶハリムとユセフのシーンが胸を打った。中途で出てきた葬列とは違って、掟破りだから誰もついてこなかったのだろうけど、そんなこと意に介さず通りすがりの人々の視線など気にも止めず、胸を張って歩くふたり。

ちょっとショックだったのは、現地でこういう伝統産業がどんどん廃れていってるところ。なんか日本よりずっと伝統的衣装とかを大事にしてそうなイメージがあったので、今はつくれないボタンや刺繍があることや、職人の後継者が全然いない、という話に衝撃を受けました。
この作品、モロッコ本国での評判はどうなのかな。モロッコの若い人達に観てもらって、「この手仕事を守っていきたい」と思ってくれる人が増えると良いのですが。

ミナがつくった「ルフィサ」て謎のご馳走が美味しそうすぎて、「ルフィサ、忘れないぞ」と脳内で何度もとなえて帰ってパンフ見たら載ってた(笑)。「平たいパンの上に鶏肉と玉ねぎの煮込みをのせた特別なごちそう」だそうです。何という美味しそげな響き。

ユセフがつくった卵が乗った謎のタジンも美味しそうで、シャクシュカっぽいけどあれは何だろう、と思っていたらこちらもパンフにレシピがあった。素晴らしい……!

タジンと言えば、店の合鍵をユセフに渡す際、鍵を入れてたのも超ミニサイズのタジンでした。あれは純粋に小物入れとしてつくられてるんでしょうね。キュート!



『アシスタント』

ラストのカフェの空気感が、店のサイズは違えどあまりにも『ナイトホークス』(by エドワード・ホッパー)でぐうっと刺さった。自らが選んだ孤独で自らを追い詰めすり減らし、夜の底に閉じ込められて逃げ出すことができない。

なんかもう、痛すぎて痛すぎて。どの業界であっても、世の「一般事務」を経験したことのある多くの女性が「あ、これ知ってる」て自身の実感として思うんじゃないかな。
自分は昔やってた大学秘書を思い出しました。「縁の下の力持ちみたいな仕事なんて、外部から見たら評価ゼロ円だから」「内容は何でもいいから他部署から見て目立つ仕事をしてほしい、例えばサービス残業するとか(なお「他の部署」は別建物だったので、サービス残業したところで全く感知されない為、これはその先生に都合良いだけの詭弁)」「過労で倒れるくらいまで働くくらいでやっとスタート地点」「学生バイトは本人の勉強にもなるんだから、月の規定時間超えてタダ働きになったっていいんだよ」……これ、何が凄いって、言い放ったのが経営学部の教授ってこと。
そして更に凄いのが、他にもその先生に被害受けてた人と一緒に、その人より立場が上で、学生からも人気で信頼の厚い先生に相談に行ったら、その時はいかにも親身な様子で聞いてたのにあっさり握りつぶされたこと。「悪いのは全部あの先生、君達に全く非が無いことは自分も他の先生も全員判ってる」「ああいう性格の先生だから事を荒立てたくない、あの人の言うことなんて誰もまともに受け取ってない、君達が正しいって皆判ってるのに、何を気にする必要があるの?」

「あー、結局こっちの味方する気は寸分も無かったんだな、守るのは『あの先生も含めた自分側』なんだ」て判った時の失望たるや。何て言うか、こころの中に咲いている花を、頭からぶちぶちと全部ちぎり落とされた感じがした。
ちなみに勿論、相談した先生も経営学部。「ああ、こんな人間達が若人に経営とはなんぞや、なんて教えてんだから、そら日本の会社はろくでもないとこばっかりになるわ」とつくづく思いました。

ジェーン同様、こういうのを「本来相談すべき正しい相手」に相談に行ったにもかかわらず握りつぶされる、て経験をしてると、今のネット告発システムも捨てたもんではないな、と思う。
おかしいことをおかしい、と外にはっきり訴えて、「ほんとだ、それはおかしいよ」て言ってもらえるのってすごく精神的に助かるんですよ。勇気を出した相談をぐしゃっと握りつぶされる、あのみじめさや失望を味わわずに済むだけで本当に救われる。
勿論、世のネット告発には「イヤそんなことはまず相手に直で言うべきじゃ……?」てレベルのものもあるし、一方側の主張だけで全部を判断しちゃダメだ、て注意も必要ですが。

しかしこういう、潤滑油的な仕事って実は自分は割と好きなんですね。けれどあまりに無茶なものを押しつけられて、結果すり減らして立ち去るしかない、そんな職場をたくさん経験してきました。
こうやってすべてを順調にぶん回していくのは、実は結構な頭脳と気働きが必要で(「雑用」であっても、「そこに雑用がある」と気づくか気づかないかは明確に能力の差が出る)、こういう人がいるといないとでは職場の雰囲気や仕事の効率が段違い。一度本当に「有能な潤滑油」と一緒に仕事をし、その人がいなくなった経験があれば必ず判ります。
勿論それが、同じ職務の人がいるのに圧倒的にひとりの人(大抵は女性)に偏るのは非常に良くない。そもそも自分が使ったものや食べたものは自分で片付けるのが当然。とは言え、もしそれが徹底されても発生するいくつもの「雑用」は、何人かで分割したところで結局「誰か」がやらないと消えることはない。
その立場を実行してくれる人をすり減らさない方法はたったひとつ、「その人を透明にしない」こと。
何か頼む時には「お願い」と言う、やってくれたら「ありがとう」と言う。単純だけれど、とても大事なこと。この映画では、男も女も、ジェーンにその二言を言う人はほぼいない。
それから「重要な出来事を分かち合う」こと。「取るに足らない下っぱだから不要だ」と何かの変更があっても伝えない、「同じ職場の同じ仲間」として扱わないのは本当にアウト。
同室にいる男性アシスタント二人、何か問題がある様子でも自分達二人だけで会話して、決して彼女に意見を聞いたり確認したりはしてこない。まさに透明人間、なのに面倒な電話や子守りやランチの発注や受け取り、新人の送迎なんかはナチュラルに彼女に押しつけ(本当に「頼む」ことすらしない)、謝罪メールの文を指示する。この描写は大変グロテスクでした。

ジェーンを演じたジュリア・ガーナー、あの髪は天然なのかパーマなのか。すごくいい感じにクセがついていて、おろした姿が見たいと思った。あのピンクのトップスが絶望的に似合ってなくて、「好きじゃないけどオフィスの雰囲気に合わせて無理に着てるんじゃないか」と思わせる。
人事担当のマシュー・マクファディンがもうイケボに過ぎて、その声で言うセリフがアレ、というのがまた何とも素晴らしいキャスティングでありました。ああいう人を踏みにじる言葉がうっとりするよな美声で言われる、というのが実に上手い。



まとめ


今期は私用が多くてあまり本数は見られませんでした。数週間程見ない期間があって、その後に久々に映画館に行った時、「ああ、日常が戻ってきた」という強い感覚が起きて自分でも驚いた。
7月はもう大量に見たい映画が目白押しで、懐もともかくも時間が捻出できるか謎。でもどうにか算段をつけたい所存です。


絶対見るぞと思っているのがインド映画2本。

ラーム・チャランの笑顔たまらんなぁ……!


それからこれだ、『キングダム エクソダス<脱出>』!!

SWAN SONG』見た時(感想こちら)、早く『キングダム』最終章が見たいなあ、と思ってたのですが、知らん間に出来ていたのね! 嬉しい!!
1章と2章、正直もう結構忘れているので見直さないと。
 
 
 


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