知ることは愛
ずいぶん更新が滞ってしまっていました。
老いのしくみについて、順に投稿する予定が、オンライン講座の開催の方にエネルギーを割いていました。
一年くらい書いていない気分でいたけど、
最後に書いたのは今年の7月だったのをさっき確認して、案外時間は過ぎてなかったのだなぁと思って、なんだか良くわからないほっとした気持ちになってますf(^_^)
オンラインで行っている『老いを知るお話し会』は、今年の5月から初めて、毎月一回ずつ開催してきました。
ありがたいことに、毎月必ず誰かしら2~3人は参加してくださって、講座の終わりには皆さんに感想や、介護の経験談や、悩みをシェアしていただく時間をとっているのですが、その時間がとても良くてですね、私の経験談と、皆さんのリお話しが、リアルな老いの現実を見せてくれて、とても豊かで、大切な時間になるのです。
そして皆さん口を揃えて、
「知ることは大事ですね!」と言ってくださる。
その一言がいただけると、開催して良かったなぁって思うんです。
講座の中でご紹介しているのですが
哲学者、西田幾多郎さんが著書
『善の研究』の中で述べていること
西田幾多郎さんはこうした動きを愛の作用であるといい、愛する働きと真正に知ることが一つであると言われています。
言葉は難しいのですが、単純な私の頭で考えるに、介護って、愛がないとできないと思うんです。家族としての義務とか、仕事だからってだけでは、真にその相手の求めている助けになることは、できないと思うのですよ。
これは、勝手な解釈になるかもですが、物となるってことは、親であったり、子であったり、嫁であったり、これまでの関係性によって生まれた感情などは一旦手放して、その人が
一人の老人であることを、解剖学的な側面や、統計学的な側面などから知る。
老人としての、トリセツを読む感じで、一旦受け入れることなんじゃないかな?と思うのです。
そして、そういう視点をもつことによって、
感情を伴った関係性を超えて、理解することができるのではないかと思っています。
知ったところで、これまでの関係性によっては、感情面で乗り越えることのできないことがあることもそりゃ、あるでしょう。
でも、それは、知った上でも、愛を与えないという、選択を自分でしたということなのだから、後悔することもないでしょう。
大事なのは、知らなかったから、
本当はしてあげたかった選択が出来なくなってしまうことを、知ることで回避し、
老いという人生のラストステージを迎えた人に、持てる愛を後悔なく差し出せるかということだと思っています。
なんだか久しぶりの投稿は抽象的なお話になってしまいましたが、
約半年間、毎月『老いを知る講座』
を開催して、自分の伝えたいと思っていることのなかの一つである『老い』を、伝える活動は、私の目指す方向性と、ずれてはいないと確信をもてるようになりました。
看護師としての経験から、皆さんに大事にして欲しいと思うことを伝えるということを、これからも、オンラインや、リアルでお顔を合わせて同じ時間を共有して伝えることと、
文章で伝えることの両方で、これからも、続けていきたいと思っています。
ちょっとこれからは、書く方もまた頑張って行こうと思っていますので、皆さままた、よろしくお願いしますね!