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「不登校」という言葉 〜「勉強」がずっと追いかけてくる〜

我が家の中3娘、小6息子は世間で言う所のいわゆる『不登校』中。それは事実。

色々悩んだが、今は人生の「長期休暇中」と位置づけ、2人ともゆっくり自宅で過ごしている。それでいい、と家族で話し合い、納得している。

でも。
どうしても『不登校』という言葉の響きがどうしても好きになれない。

『不』という漢字のせいだろうか。
不安、不良、不足、不平、不満…
思いついただけで、マイナスイメージの言葉ばかりだ。打消しの語。否定する意。あなた達は足りていない、と言われている気になる。

※試しに英語で不登校はなんて言うのかな、と調べてみたら、(例えばいじめとかが原因でない限りは)そもそも学校に行かない事自体に、マイナスイメージはあまりないらしい。なんだったら「学校より面白い事を見つけたから、もう学校にはいかないぜ!」くらいの勢いらしい。お国柄なのだろうか。


大人は、例えばうつ病などで精神的にしんどくなった時は、本人が申し出れば会社を休める。無理せず、ゆっくりすればいいと言われる。勤め先がブラック企業なら、会社を変わることも出来る。

それなのに、どうして「子供は学校を休むことを許されない」ような風潮になっているのか。(国から無理に登校させる必要はない、という通達が出ているのにも関わらず、だ。)

少し譲って、学校は行かなくてもいいとなっても、「勉強はしなさい」はずっとついて回る。適応教室、フリースクール、塾、自宅学習…。
大人は仕事を休めるのに、子供は許されないなんて。理不尽ではないだろうか。

周りの人は、勉強しなくて大丈夫とは言ってくれない。勉強が遅れたら、後々本人が可哀想、大変だよ。少しでもやらせなきゃ。
それじゃあ、心身ともに疲弊しているのに無理やり勉強させられる「今」子供は可哀想ではないのか。

本人達もわかっている。自分が家でゆっくりしているこの間も、ゲームをしている間だって、今この瞬間、クラスメイト達はちゃんと勉強している。差はどんどん広がっている。そう思い、出来ていない自分と比べ、卑下してしまう。そしてとうとう、「せめて気分転換に」と始めたゲームすら取り上げられてしまうのだ。

そんな精神状態で、気持ちがいつ安らぐのだろう。何のために、潰れてしまう寸前の自分の心を守るため、子供達は最後の勇気を振り絞って「学校へ行きたくない」と親に言ったのだ。

決して、勉強しないことを正当化したいのではない。でも一旦、「何もかもを休むこと」を許してもらえない限り、子供達は本当に休めない。ましてや勉強をやる気など起きるはずがない。

不登校になってすぐの頃、インターネットや本で「不登校」について、沢山調べた。

不登校は親のせい、不登校の子供の親の特徴。責め立てる世間の情報の波に溺れ、親の心が折れていく。子供が学校に行かなくなっただけで、世間から責められる。日常がひっくり返る。

そして、間違えてしまう。「子供が学校にまた行けるようになれば、元の生活に戻れるはず。」今度は親が子供を追い込んでしまうのだ。それでは子供の居場所がなくなってしまう。家は子供の最後の安全基地なのに。

大丈夫ですよ、と言ってくれたのは不登校を経験した人達だけだった。心が落ち着いて元気になれば、必ず立ち上がります。やる気が出るようになれば、勉強もそれからでも充分追いつきます、と。


「不登校」は今、親としての課題に向き合っている最中。不登校の理由も人によって色々だ。例え子供のわがままでそうなっているように見えても、当事者でなければ真相はわからない。

そして、いつ子供達の心が癒され、立ち上がる日が来るのか、誰にも予想がつかない。
子供は日々葛藤し、親は新しい価値観を受け入れることを余儀なくされる。
いつ、どこがゴールなのかわからない人生の課題。その親子だけの、課題に日々向き合っているのだ。

たから、ただ周囲の人達には優しく見守っていてもらえればいい。世間の目が少しでも温かいものになれば、みんなもっと楽になるのに、と切に願う。

そう思いながら、今日も私は子供達とともに、人生の課題に向き合っている。

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