史実とフィクションの怪物で希望を描くということ -映画『ゴジラ-1.0』公開一ヶ月に添えて-
『シン・ゴジラ』以来の邦画ゴジラの新作。
今作担当の山崎貴監督らしさも存分に詰まったフィルム、映画『ゴジラ−1.0(マイナスワン)』が2023/11/03公開となり、初日初回に仕事明けから足を伸ばし遠方でもドルビーシネマ上映を選び最高の環境でその結実を見届けて参りました。
(※当日書きかけた記事を下書きのまま放つタイミング逸することよくあります(
丁度1ヶ月ですね❢
そうこうしている内に本作は大ヒットとなり既に多くの方も御覧になっているかとは存じますが、折角書きかけていた記事でもありますし
これから鑑賞を迷われている方等も勿論おいででしょうから、後押し御紹介を1項目目に
2項目以降目には多少内容にも踏み入っての感想などを綴ってみたいと思います。
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戦争映画で絶望のその先を描くということ(観賞を検討されている方へのおすすめを兼ねて
まずは公式の予告編を御覧下さい。(※まっさらな状態での鑑賞を望まれる方はこれ自体御覧にならずこの項目記事も読まれず劇場に是非)
予告編にあるのはひたすらの絶望です。
そしてこれは本当に”史実を踏まえた戦争を描いた映画”でもあります。
ですが
だからこそ描けるその先の未来がある事を、
そう言葉で言って終わる訳でない、鮮烈なフィルムへの焼き付けがこの映画には存在していました。
あまり言うのも逆に先入観を与えるかと存じます。
只々、絶望を観る事に二の足を踏む方も、どうか、絶望の先に踏み出して頂ければ。
神木隆之介さん演じる主人公・敷島浩一は第二次世界大戦中の特攻隊員の生き残りです。
戦時中という異常状況下で国から命を捨てて英雄となる事を望まれた日本兵。その行き着く先であった特攻隊員。
史実としても存在した立ち位置の彼は、フィクションとしての絶望の怪物・ゴジラとの浅からぬ因縁と共に、戦後復興が始まった頃の日本でこの映画のメインストーリーを歩みゆきます。
フィクションというにはあまりにリアリティを授けられた怪獣王ゴジラの描写だけでも、その映像表現に息を呑むはずです。
CGの作り込みや演技の付け方以上に、”どう描写されているのか”に於いてこの恐怖は相当なものでした。
今作のゴジラには、過去作のように超兵器で戦う事も他の怪獣が戦ってくれる事も現代社会の人類の叡智で対抗する事も、一切出来ません(※私自身過去作ファンでもありその否定ではありません念の為)。
焼け野原の戦後日本で、こんな化け物相手に何をどうしろというのか。
どうするのか。
是非、見届けて頂ければと思います。
◉
因みに冒頭先述のように私は今回初観賞からドルビーシネマ上映で浴びて参りまして、可能な方は同様に是非ともドルビーシネマでのご観賞をオススメ致します..!
席を揺らす等のアトラクション的な4DX等とは全く違う、
純粋に音と映像を最大限に楽しむ為の”圧倒的な映画体験”に特化して作られた特殊映画館、それがドルビーシネマです(※ドルビーサラウンドと混同されそうですが別の単語です)。
あれは凄いものです。。あなたのこの映画への没入感に一役も二役も買ってくれるはずです。
◇
山崎貴監督の強く恐ろしいゴジラという巨大生物への愛(※ここから映画の内容に深く触れます
さて
私は今回今作に対し、初報を観た以上の情報は何も入れずに観に行きました。
初日初回の前時間なので上映前にしっかり在庫もあった劇場限定ソフビもある内にと一応購入しておいたものの、もしもこれで映画そうでもなかったら高い買い物かも..と少し過ぎったのですが
そんな事などない大満足の観賞体験となったのでした..!
終戦間近のとある島での導入から
開幕間もなく突如その躍動する全身と凶暴性を魅せるゴジラ。
例えばシルエットや体の一部などのみを写し「あれは何だ?」感を出しつつ映画が進行し一定のところでその姿を見せるといった構成演出は、ゴジラ映画に限らずモンスター映画では比較的安定した作り方であるはずが
そこをもう最初にバン!!と魅せてしまう辺りの驚かしと、そこでゴジラが行う行為と状況の恐怖感。
そしてある種の格好良さ。
山崎監督がゴジラをどう魅せたいかがまっすぐ伝わって来たように強く感じたのを覚えています。
先程のソフビ画像のキャプションでも触れた今回の熱線の吐き方もですね..
蒼白い光を溜めながら複数の撃鉄のように順次跳ね上がってゆく背ビレ、それらが一斉に押し込まれると同時に吐き出される凶悪な熱線
あんなカッコイイギミックよく考えたな〜〜と申しますか
あれをメカゴジラのような機械がやる訳でなく、しかし生物ながら得体の知れない化け物でもあるゴジラだからやれるあんな発射シークエンス
もうあれもワックワクで、監督〜〜〜〜..!!となっていたのでした。
劇中人物の視点としてもあれをやり始めたら激ヤバ光線あの熱線が来る..!!!って判りやすいですしね。
(※鑑賞中頭の中で勝手に「激ヤバ光線(by『シン・ウルトラマン』)..!」と高まっていたのでした
あの状況下であんな化け物をどう倒すのか、下手をすれば倒せない筋書きなのかと固唾を呑んで見守っていた中で”これはきっとこう魅せてくれるはず”という展開に繋いだ終盤(※この展開部分は別見出しで後程触れます
その先の最終決戦も、とはいえ本当に倒せるのかという圧倒感をもってゴジラは描かれます。
過去作でも触れられたような再生能力も、眼前で欠損した頭部が再構築されていく異常な光景をビジュアルとして映し出します。
最期の最期までその圧倒感は続き、だからこそそれを打倒した敷島をはじめとする全ての人の覚悟と行動の結実が胸を打った形でもありました。
今作の人間ドラマの強さ故にゴジラ映画の側面を問う声も少し見掛けましたが、舞台装置として置かれた得体の知れない巨大生物に脅かされ対抗する構図は初代『ゴジラ』への原点回帰とも言えると感じました。
と申しますかそうしたメタ的な話をせずとも、間違いなくどれ程にも圧倒的な怪獣王の姿があのフィルムにはありました。
特に初見でドルビーシネマでしたので、まぁ様々な描写に目の前で絶望を叩きつけられている心持ちで、
ゴジラに対し”何を考えているか判らない”ではなく、「コイツは人間をコロシに来ている」とビリビリと肌に響くような観賞体験だったのでした。。
◇
戦後日本を圧倒的な巨大生物が蹂躙するという構図の意味合い、その見事さ(※終盤の展開に触れます
怪獣というものは古くから自然災害の比喩表現と語られる事もありました。
戦中戦後が舞台の今作では他国の脅威に例える人も見掛けました。
が、
怪獣は”巨大生物”です。
安易にそう置き換える事の出来ない、通り過ぎたり収まるのを待つ他ないものでもなく、国際問題として別の側面が出て来る対人問題でもない、
意思を持った、時に捕食や繁殖を伴う生きた巨大な化け物(※人間からすれば)です。
1見出し目で触れたように、全てを失った焼け野原から再び立ち上がり始めた頃の人々が一体どう対抗するのか。
”あの状況下でやれる事”を掻き集めて手段を構築していく事にも感嘆したのですが、
手段以上に沢山の意味が人々の気持ちの動きに込められていた事に何よりも震えたのでした。
※この先、終盤の展開に触れます※
△▼△
震電を駆る敷島のあの覚悟
私は瞬時に、特攻隊員のくだりで語られていた「脱出装置も付けられず」が頭を過ぎり
更にあの電報
これは
”最後こう倒してこうなってくれるはず””最後そうなってくれなければいけないはず”と
熱い気持ちが胸を駆け巡り、私はその時点でも少し泣いてしまい
そこから只々、最終決戦を見詰める事となりました。
ですが、それを期待しながらも同時に、簡単にそうなって終わっては映画としての納得も得られない難しいものだと考えてもいました。
結果
あの総力戦で全ての人が前に進み
そして誰よりも敷島が
敷島自身がやっと向き合えた大切な人から得た問い掛けの答え
彼の戦争をやっと やっと終わらせて
『ゴジラマイナスワン』は幕を下ろしたのでした。
最後の展開は想定した通り、でありながらそれをあれ程に最高の形で、ちゃんとちゃんと手順を踏んで積み上げた先に描いて魅せてくれて
私はボロボロに泣いてしまい
エンドロールの【監督・脚本・VFX 山崎貴】のタイミングで起きた場内の拍手に、「正に私もしたかった..!」と遠慮なく渾身の称賛の音を鳴らしたのでした。
どんなに言葉を尽くしても変わらない史実の絶望の中で
フィクションの怪物を人々の覚悟と前に進む気持ちと行動が打ち倒す。
その意味と物語としてのカタルシスが見事に絡み合いフィルムに結実した形が
『ゴジラ-1.0』という映画でありました。
◇
余談:映像作品の責任の所在など視えはしないという御話(※この項目に映画の内容のネタバレはありません
私にとって山崎貴監督の一番の印象は古く金城武×鈴木杏×岸谷五朗の良質VFXアクション『リターナー』で、『ジュブナイル』等もですが映像描写と物語を拘って描く人だなぁと感じていました。
なので今作のゴジラを監督が撮られると聞いた際にもひたすら楽しみしかなかったのでした。
最近の『ドラゴンクエスト・ユアストーリー』や『STAND BY MEドラえもん』は機会無く未観なのですが、作品どうこうより監督名でやたら罵られているのを知った時は、むしろその罵り方からSNSの悪い層のいつものレッテル貼りとの印象が先にありました。
そしてゴジラ新作の報で名前が出た際に私同様普通に期待する人達と別個、恐らく観てもいなさそうな人間達まで先述のSNSの”悪評”を持ち出して嘲笑する様子に、当時まだTwitterにも居た私は、ここはこうした汚泥の温床になる構造がもう直らないのだろうなと感じたものでした。
先日放送された『ワタジョ!!演技塾』で、ゲストの三池崇史監督が「”○○脚本(※あまりにも酷い脚本)”だとどう面白く撮ろうかと逆にテンションが上がる」という話をしていた中で、
「そうした脚本が稀に生まれてしまうのは、脚本家自身がどうのじゃなく出資者の思惑とか色んな事情が入って来てそうなってる訳なんだけども」といった事を話されていて、そういうのにちゃんと触れてくれた事に甚く感心致しまして。。
商業作品、特に映像作品となると膨大な数の人の様々な思惑の落し所が世に出るフィルムなのは当たり前で、先述の三池監督の仰るような事は割とすぐに想像出来る事だと思うのですが、
そこを安易に「監督が」「脚本が」と個人攻撃で吊し上げそこに群れたがるのが、Twitterのような大衆SNSの下世話な面のひとつです。
今回の新作ゴジラの報で「ゴジ泣き」と言って『STAND BY MEドラえもん』の「ドラ泣き」を持ち出して山崎貴監督を嘲笑していた層も散見しましたが、広報のキャッチコピーと監督業の別も理解していない訳です。
(※特撮のスーツデザインで脚本家を罵るような人もゴロゴロ居るのがああした場なので..
個人のクリエイティブな部分が出易いのは演出や台詞作り等の末端表現部分で、勿論作品によっては監督や脚本家の個人才能を優先して作られる企画もあり
そことてケース・バイ・ケース且つそれも100%個人作業な訳はなく。
また違った話として
先述の『シン・ウルトラマン』のケースでは、一般的に庵野秀明作品として捉えられている為まるで彼が監督かのように思っていた知人も居たのですが、あの映画の監督は樋口真嗣さんで
ですが逆に「映画ならまず称賛されるべきは”監督”のはず」という声を見た時はそれも違うと思って。
勿論映像演出面や全体の取り纏め方で樋口さんの拘りも素晴らしくそこ自体を褒めるなら解るのですが、あの映画は樋口さん自身も「庵野氏の企画と脚本を忠実に映像に移し替える仕事をした」と御話されていて実際映画の核に一番色濃かったのは庵野氏の仕事部分でした。
”監督”という肩書だけを褒める材料にしては、それもまた樋口さんにも失礼な話だと思うのです。
総じて
褒めるも貶すも、知っている名前を出すのが大衆的には便利なのやもなのですが
ものづくりってそうじゃないのよって御話でもありました。
(tvドラマとかはむしろプロデューサー等TV局側のスタッフ前面が色濃い感じですよね。場合によっては脚本家名を売りにする事も多いものの、監督や演出が話題に出る事は然程無い印象です。
そして映画はまず"監督"で
この辺は興味深いものだなぁと。
◇
おまけ:恒例の?ウチの子の記念撮影
劇場フロア、エレベーター前にポスターと丸の内ピカデリーさんが貼られた装飾がありましたので記念撮影して参りました。
過去の映画記事なども宜しければ
インフォメーション!(*˘︶˘*).。.:*
記事はここまでですが、
お気に召して頂けたならのおひねりを受ける為の帽子👒を用意致しました。
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(※続きの文字は御礼文面です
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