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三が日と魔法つかいと恋ダンス -“生き易さ”とか自由な人生とかの御話-
あっという間に2025年の三が日も終わり
などと言っている間に私も世間も通常進行。
きっとまたすぐ年末です。(割と冗談でなく
そんな年末年始、やること色々片しながらも基本流したままだったお正月のtv。
久々観たもの、初めて観たもの
そこで考えた諸々のこと
そんな話を徒然綴ってみた記事です。
(※観た作品諸々核心を避けつつふんわり物語内容に触れる部分があります
🎍生き辛さと“生き易さ”を描く -逃げ恥SP&スロウトレイン-
昨年は映画『ラストマイル』の公開もあって今年4月にはそのソフト発売もあるので、関連ユニバースとして年末年始またアンナチュラルとMIU404一挙再放送やるかなと思ってたのですけど
話題になったふてほど一挙を優先したのか、今回は野木亜紀子脚本再放送枠は『逃げるは恥だが役に立つ』でした。
逃げ恥一挙ラストで久々ガンバレ人類!新春SP観たんですよね。。
このスペシャルドラマは、コロナ禍も添えつつ“様々な人の生き方”に寄り添っていて。
単純に多様性云々への反感を持つ感想では当時も色々言われていたのは思い出されるのですけれど
世界がああであった中で人が生きるというその“人”は本当に様々な
あなたも あなたの大切な人も 全く知らない人も
沢山のものを抱えていて。
そうである“誰か”の、誰も取りこぼさないといった姿勢とかではなく
只々、沢山の“様々な人の生き方”をあの御話のあの環境下で添えるのは、大きな意図と意義があった訳で。
(※この“生き方”は別に性的指向に限る話ではないのですけど
男性の同性パートナーは昨今多々“普通”に扱われるようになりましたけど女性のそれって当時は 特に日本の創作劇では触れられる事が本当に少ない印象ではあったので
逃げ恥SPという著名作でのあの描写は、少しばかりではあっても大きかったなぁって。。
(“唐突に居た女性の同性愛者を出して来た”という感想も当時見掛けたのですけど、特別存在などでない“普通に居るひと”なんですから、それで当たり前だと思うんですよ。
(そして別途あの“彼”の顛末もまた、別段アセクシャルでなくともああした選択が、それこそ人の数だけ存在してよい訳なので。
(何の話かは一応ぼかしておりますゆえ未観の方はこれからでも是非
しかしまぁ
まだ数年前なのに不思議なものですよね。
今は新型コロナも“未知のウイルス”ではなくなって共存出来るようになっただけでそれそのものが消えた訳でもなければ、そもそも他の生命の危険なんてどれ程にも多々ある中を生きている訳で。
そしてそうしたものを別にしても、只人間社会で“生きていく”だけで“生き辛い”ものを抱えている人は沢山居て
でもそれは実は本当にずっと生き辛い生き辛いと向き合わないといけない訳ではないものでもあって。
それは 他者の目であり 他者の目に対する自分の内面への目であり。
逃げ恥SP感想がてらの前振りが長くなりましたが
過去作一挙だけでなく
しれっと放送された野木亜紀子脚本最新作。
新春SPドラマ『スロウトレイン』は正にそうした御話でした。
松たか子さん演じる主人公の選択に救われた人も多かったのではないかと思います。
それはああすれば別にいいという事ではなくて、自身が選択してそう“きちんと生きる”事を選んだのであればそれは誰憚るものでもないという事であって
妹弟達のように手を取る相手にきちんと向き合って生きる事を選んだのであればそれもまたひとつのという事でもあって。
どちらにも どちらであろうと何であろうと
人が生きる事には迷いや難しさ、伴う生き辛さはあるには決まっています。
でも
何にせよそこに“そうしなければいけないのではないか”というものはなくて。
だから只
“そう選んだこと”にきちんと向き合って生きていくだけで、ずっと“生き易く”なるものだと思います。
ゆっくりと それでも確実に
命を終えるまで進みゆく
人生という名のスロウトレイン。
生き方に迷い悩む時間でそこを消費していても止まる事はない訳なので。
勿論紆余曲折するのが人間ですが、それでも“そう生きよう”と思った事に向き合って丁寧に、その列車に揺られゆきたい。
私、個人的に昨年は
様々他者との向き合い方に沢山悩み削がれる事が続いた年だったのですが
もう
そこに時間と精神を取られていても仕方ないなと思うように至ってしまった年でもありました。
それらを自分の人生を大切にする事に全振りしていかないと、結局他者を介する事など
もしも解決したところで
“他人と上手くやれるようになった”ところで
自分の人生をその人達が責任持ってくれる訳なんかではないので。
去年はそんな中でも自分を尊重してくれる人との新たな出逢いや改めての感謝もあって。
そうした人達にこそきちんと向き合って大切にしながら
何より自分の人生をもっとちゃんとしていく事に時間と労力を使わなくちゃ。
私自身のスロウトレインを
穏やかに快適に誇れるものにしてゆきたい2025年です。
💃
処でそういえば逃げ恥SPのエンディングで久々恋ダンス観て、そうそうこのダンスのことですよ〜〜と自身の過去記事引用が浮かんだのでした▽
記事はNHKドラマ『VRおじさんの初恋』の原作当時に描いたファンアートと、伴うアバター語り。
原作漫画もドラマ版も、それこそ人の内面と自身や他者の人生との向き合い方の御話でもありました。ドラマ自体様々語った関連記事へのリンクも入っておりますので是非。
あと野木亜紀子さん絡み記事(からの大昔の同人時代の知人さんの思い出記事)も▽
ラストマイルも初日初回観に行ったのですけど、実は記事も書いてて下書き熟成させたまま投稿タイミング見失っているのでした。(ソフト発売時頃に投げようかしら..
🎍“正しいこと”を本当に人間は扱えているのか/かといっていけないことはいけないこと の反復横飛び -不適切にもほどがある-
流行語大賞にまで登場した2024年の大きな話題作ドラマ『不適切にもほどがある!』。
私実は本放送当時観ておりませず、今回の年末一挙が初だったのでした。
(当時、“昭和の不適切オヤジが令和のコンプライアンスをおちょくる”みたいな印象の宣伝だったので「これは悪いクドカンだな〜〜..」となっちゃってたんですよね。。
でも今回実際観たら全然違って。(あれは本当に宣伝が悪い)
むしろ阿部サダヲさん演じる主人公の“昭和親父”の視点が本当にちゃんとしていて。
令和は令和で、行き過ぎてどこかズレた部分も大きな“正しさ”に正面から疑問を持って
昭和は昭和で、令和できちんと様々な物事に向き合った世界を知ったからこその昭和の人権意識の低さやあの時代の“常識”の異常さにも同様に疑問を持って。
タイムマシンで行き来する事でのその双方を掘り下げる御話だったんですねあれ。。
そして同時に双方の良さも勿論表現されていて。
語り口もまた洒落ていて。
やっぱり流石の宮藤官九郎脚本だったんだなぁと。。
この辺の話ね
昭和は昭和でとんでもなかった事を令和ではきちんと考えようと沢山世界が整理されていって、それ自体は社会がちゃんと前に進んで来た結果だとは感じていて。
でも、結局無数の人間で作られているのが社会だから
今現在で全部がまるっと正解にはなるべくもなく
常に見直し見直しで擦り合わせて進んでいくしかない訳なので..。
そういうのを長台詞で“言いたい事”みたいにしてしまわずにミュージカル形式入れて対バンみたいに歌い上げ合う表現がまた良かったなぁって。
(ミュージカル入れるのは磯山晶プロデューサーの発案だそうで。クドカン作品とも付き合い長い人ですもんね相互作用お見事でした。。
ちょっと私自身の偏った話を添えると
例えば令和で“個人”を大切にされるようになった世界は本当に素晴らしいと思う反面
その付随で誰もが自由に他者にも干渉しやすくなりすぎて沢山の地獄が生まれている様には辟易していて..。
人間社会どこまでいってもままならないなぁってこう。
(昔で云えばアングラの匿名掲示板での隠れた汚泥のようなものであったものが、あんなにも表立って“一般人”の中に当然のように扱われているのが今のSNSの巨大な側面だと感じています
(これはネット社会云々でなく、そこで可視化されるようになっただけの人間自体の問題な訳で
(なのでね Twitterが酷いって他所に人が移ってそこで人が増えたらまた良くない構造が再演されてるという話って、まぁそういう事だろなぁという(Twitterだって“開かれた個人ラジオ”の穏やかな“呟き”が主体だった頃は平穏だったはずで、システム自体が悪いものなんかじゃなかったはずなんですのよ..
(結局道具に善悪なんてなくて使う人間の云々
(noteさんもネットの一部なので実は良くないものが割と転がっていたりはするのですけど、構造上それがXみたいに拡散されづらい穏やかさは桁違いではあるかなとは。。(同時にそれは人に届き難いという事でもあったりする訳ですがそれこそまるっとした正解なんてないものな訳で
何にせよこれを憂いてそういう人達に何か言ってやらないとと(それこそそのSNSと同じ事に囚われるように)なってしまったところで
自分の人生は何も前に進まない訳で。
疑問を呈するのは大事です。でも他者を介する事な以上それはそこまでで
それより自分がどうちゃんと生きるかに時間と精神を使わないとな訳で。
(実社会でもネットでも結局は同じなんですよねネットもその向こうに居るのは人でしかないので..
年末でもこの辺を改めて考えていてからの
年始の前項だったのでした。
(ふてほど、別にネットリンチに限らない実社会でのああした“結託して個人に石を投げ続ける行為の気持ち悪さ”にも触れていたのがとても印象的でした。
🎍大人の女性になって 嘗ての少女達による“家族”再び -魔法つかいプリキュア-
年始には懐かしいアニメーション映画も放送されていました。
2016年公開だったその『奇跡の変身!キュアモフルン!』は、当時の日曜朝の歴代シリーズ最新作の劇場版。
その作品『魔法つかいプリキュア!』では、
🧙運命的に巡り逢った異界の少女二人
🧙少女の一人と生まれた時から共に過ごし今では自律で動き話すぬいぐるみ
🧙超越存在の力を継ぐ妖精の少女
そんな出自も属性も多様な4人が“家族”の繋がりを持っていました。
そして年月を経た今年
何と2025/01/11より続編が放送されておりまして。
それも一般向けの枠である深夜アニメとしてなんですよね。
嘗て一応児童向け企画枠であった作品が、この枠になってどこまでを描かれるかに個人的に注視しておりまして。。
新作『魔法つかいプリキュア!! MIRAI DAYS』(通称“まほプリ2”)において、前作では中学生だった彼女達も年齢的に大学生(実は前作最後ここには至っていたので正に“あれから”なんですよね..!)。
当時から“家族”を自覚していても、どうしたって大人の庇護の元の“子供”でもあった訳で。
でも 彼女達はもう大人です。
魔法界の少女・十六夜リコは魔法学校の先生に。
ナシマホウ界(※人間界のこと。魔法がある世界前提のこの呼び方ホント素敵な世界観なんですよね。。(..実は物語の大きなギミックも入っている名前なのですがそれは是非前作本編をご覧下さい)の少女・朝日奈みらい は大学生に。
“家族”として特にこの二人から始まった関係性は、友情の延長線のようでも運命の恋のようでもありました。
大人になった二人の“未来”に何が描かれるのか。
勿論そういうところに踏み込むとも限りませんけれど
昨今度々所謂“多様性”にも多々触れて来たシリーズでもあって
ストレートに言いましょう
こうした著名作で同性パートナーを描くことで、届くことや救われる子も居るはずって思うんですよね。。
(その“役割を当てはめる”とかでなくて、単にみらいとリコならそこに至っていてもおかしくないと感じるので、今回のこの枠この年代なら制限なく描いてもというだけの話でして
..なんて放送開始前に下書きしていたのですけど
新規変身バンクで普通にキスしててへーってなりました。
いやまぁあの子達ならさもありなん。
(コマ送りだと一応その一瞬口元だけを画面外にしてはっきり視せてはいないのですけれど、前後の表現含めてあれは流石に言い逃れ出来ないというか
放送前にチェックは入ってるはずなので、露骨に見せないまでもみらいとリコの進展としてあの表現OK出して来たんだなぁと。。(それこそ一瞬で気付かれなかったのかも知れませんが..)
妖精の子・はーちゃんが生まれた時から育てて来て二人ともが“お母さん”である事は沢山描かれて来ていて
でもどうしたって中学生では“子供達の集まり”に視えてしまう形で
でも成人年齢に至っている今作ではそこから違い、在る種の生々しさも醸し出される形な訳で。
前作の出逢いと別れと再会、あんなにもロマンティックで情熱的に描かれていたのと対比的に
多分あれからも定期的に逢ってはいて/でもお互いに忙しくもなって逢うのを我慢(十六夜の月を見上げながらお互いを想ったりもしながら。。)していた事は伺えてて
そこからのMD第一話での久方ぶりの邂逅のしっとり感が何かもう ね となったのでした。
多分こういう話をすると同人的などと抵抗を覚える人もおいでなのは存じておるのですが
こうしたものを“パロディ的”に捉える方が私はずっと疑問で。
(本作の話ではありませんが、劇中ではっきり同性の恋人関係の登場人物が居ただけでそうした物言いをしたりですね..。それはその人の“現実”に“そういう内面の人”は存在しない、という話でしかないのですよね(特別特殊な自分と別の世界の人だと思っているというか
特にアニメ作品だと百合って言葉で騒がれる事が多い印象ですけど、そういう消費のされ方でなく、ああした出逢いと日々を積んで来た子達が大人になってこうした景色を視ているというそこを自然に受け止めたらそれでいいと思うんですよね..。
(元々“百合”って概念はもっと素敵な言葉だったはずなんですが、今その言葉で検索しても私の好むような作品や話題には届き難い実感があって。まだpixivしてた頃も自身の作品にそのタグを付けなくなっていっていたのを思い出します。フックとしては解り易いワードなので付けた方が何かと便利ではあろうから難しい処なのですけれど)
そして勿論恋愛関係が最上な訳でもなくて
ニチアサ劇中でもずっと描かれて来た“家族”関係が、ミライデイズという深夜枠でどのように表現されるかというあくまでそこの御話なのでした。
(まほプリMDとは別途この辺の余談として以下少し▽
(主人公の杉本ちさとと深川まひろという女性二人のあれ程の関係性を“名前がない”として描き続けた映画/ドラマ『ベイビーわるきゅーれ』で何かこう改めて「人と人とで他の誰よりも大切なお互い」というものを絶対恋愛と名前を付けなくてもいいのは、異性同性関係ないんだよねとつい最近も感じたものでした
(逆に、物語として同性同士の婚約者として始まり婚姻にも至ったのに、“カップリング商法の為に(+ワールドワイドな著名作としてターゲットを狭めない為に)”明言を終始出来なかった『機動戦士ガンダム水星の魔女』のような事例もあって、そんなにも“女性の同性恋愛はまだ言ってはいけないこと”な扱いなのかとあれはかえってげんなりもしてしまったものでした(主人公ではなかったからかも知れませんがガンダムでも男性同性恋愛表現は過去に普通にあったので..(スレッタちゃんとミオリネさんの人生にも、グエルくん達きちんと自身の想いに整理つけた人達にも失礼なのよ..
(上記記事当時は、そもそも特に日本の創作劇においてずっと感じている女性同性恋愛への明言を避ける風潮への疑問視も添えていたのですが、最近その辺増えて来ていて過渡期ではあったのだろうなぁと万感の想いではあるのでした。
例えば、タイトルで茶化し扱いに感じて放送当時観ていなかった『チェイサーゲームW-パワハラ上司は私の元カノ-』『同W2-美しき天女たち-』がU-NEXTにあってふと一気観したのですが
これものすっごい真正面から、女性同性愛者同士が恋に落ちて二人で家庭と家族を持つに至る日々が、そこにある“社会の様々な現実”にも向き合い続けた上で描かれていてびっくりしたんですよね。。こんなちゃんとした話だったなんてというのと、これを一般ドラマ枠でやれた意義と)
🧸
まほプリの話に戻りまして
因みにぬいぐるみ・モフルンは魔法をかけられた段階から擬似的に言葉を発している訳ではなく
長年大切にしてきたみらいの側共々“ずっとみらいとお話をしたいと思っていた子”が魔法で言葉と自律動作を得ただけというのが本当にグッと来るんですよね。。
口をきけるべくもないあくまでぬいぐるみであった初作第一話段階でも、意志があるかのような表現の先にみらいとリコの出逢いを繋いでもいたのですけど
後にそれは本当に、物云えぬ、身動きも出来ない、ぬいぐるみだった彼女が 「魔法つかいさんが居るよってみらいに教えたかった」からの行動であったとまで語られたのでした。。
(そしてこの子は“家族”において、はーちゃんの“お姉ちゃん”と言葉にもされています(家族での立ち位置であえて例えるならみらいの連れ子のような子なのですけど、その例えと別途、みらいとモフルンのこの関係性自体がすごく素敵なので。。
(先述の映画は、タイトルにも出てるので言ってしまうとその彼女が“みらいと同じ”プリキュアになった御話でした。まほプリにおいて“魔法は願い”“願いの形がプリキュア”で、その一個の大きな特別編だったのでした)
MIRAI DAYSの主題歌の一節に「夢の続き」というものがあって、ここで涙腺の緩い私はまたその。
当時を振り返る番外編ではなく、彼女達の紡いで来た世界と人生の先にこれからも続く今回の御話。
大人になっても“魔法つかい”で“プリキュア”である彼女達の未来の日々。
🎍記事の終わりに
当初それこそ3が日最後にふと綴っていた記事でした。
でも何かこう ダラダラと長々書いていただけのものになっていて
元々の下書き熟成グセも含めてここまで置いていたのですが
ふと纏めて放っておいてみる事に致しました。
まだ1月中旬、ギリ年始記事にはなったでしょうか。
話題元の作品どれも通っている方ばかりではないとも思うのですが
一応私としては年末年始繋がりで、テーマとしても表題通りといったものでして。
どなたかの何かしらに届くものがあれば幸いです。
✨✨🎍✨✨
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