悲歌慷慨の「楚歌」~荊軻 ・ 項羽 ・ 劉邦 ・ 烏孫公主
楚歌
秦末から漢初にかけて、「楚歌(そか)」が広く盛行しました。
「楚歌」は、屈原(くつげん)の「離騒(りそう)」に代表される「楚辞(そじ)」の流れを汲む短篇の詩歌を指します。もとは、南方の楚国の民謡でした。
「楚歌」は、形式的には、『楚辞』と同じように、語調を整えるだけで特に意味を持たない助字「兮(けい)」を句中や句末に用いるところに特徴があります。
内容的には、悲憤慷慨、絶叫型のものが多く見られます。
絶望の淵に追い込まれたり、得意の絶頂で心を震わせたり、極限状態に置かれた人間の高ぶった感情を詠じています。
ここでは、世によく知られた4つの「楚歌」を時代順に読んでみたいと思います。
荊軻「易水の歌」
刺客荊軻(けいか)の事跡は、司馬遷の『史記』「刺客列伝」に詳しく記されています。
燕の太子丹(たん)から秦王政(後の始皇帝)の暗殺を命じられた荊軻は、匕首を懐に秦の宮殿に向かって旅立ちます。
決して生きて帰ることのない旅立ちです。
太子をはじめ、みな白の喪服に身を包んで、国境の易水(えきすい)のほとりで荊軻を見送ります。
いざ、別れに臨んで、高漸離(こうぜんり)が筑を打ち、荊軻がそれに唱和して歌います。
感情を高ぶらせて歌った辞世の歌が、「易水の歌」として後世に伝わっています。
――風は寂しく吹きすさび、易水の流れは冷たい。
壮士がいったん去ったなら二度と帰ることはない。
「兮」を挟んで、「楚歌」の形式で歌われています。
その響きは悲壮感に満ち、聴いた者はみな涙をこぼして泣いたといいます。
歌い終わると、荊軻は振り返ることなく去って行きました。
結局、暗殺は失敗し、荊軻は非業の死を遂げます。
後世、荊軻のことを歌った詩は数多くありますが、特に、初唐の詩人駱賓王(らくひんのう)の五言絶句「易水送別(えきすいそうべつ)」がよく知られています。
――ここ易水のほとりは、刺客荊軻が燕の太子丹と別れた場所だ。
血気盛んな丈夫の髪は、悲憤のあまり冠を突き上げるほどだった。
あの当時の人々はすでに没し、遠い過去のこととなったが、
易水の水は、今もなおあの日と変わらず、寒々と流れている。
項羽「垓下の歌」
項羽(こうう)の事跡は、『史記』「項羽本紀」に記されています。
秦滅亡の後、項羽と劉邦(りゅうほう)が覇を競い合う「楚漢戦争」になります。
一進一退の攻防を繰り広げますが、ついに漢軍が項羽を垓下(がいか、今の安徽省霊壁県)に追い詰め、幾重にも包囲します。
「四面楚歌」の状況で、項羽が寵姫虞美人(ぐびじん)と愛馬の騅(すい)を前にして歌ったのが「垓下の歌」です。
――力は山をも抜き、気概は世をおおう。
しかし、時運に利無く、騅は進もうとしない。
騅が進もうとしないのをどうすればよいのか。
虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのか。
項羽は、四方の漢軍の陣から故郷の「楚歌」が聞こえてきたことで、敗北を覚悟しますが、その項羽が歌った辞世の歌もまた「楚歌」でした。
項羽は、囲みを破って出ますが、漢軍に追撃され、窮地に陥ります。
江東へ逃げ延びるのを潔しとせず、項羽は、肉薄戦の末、自刃して最期を遂げます。
劉邦「大風の歌」
『史記』「高祖本紀」の記すところによると、天下を取った後、劉邦は故郷に凱旋し、若者百二十人を集めて、天下の王者となった感慨を歌いました。
――激しい大風が起り、雲が舞い上がる。
わが威光は天下を遍く照らし、今われは故郷に帰る。
何処で勇士を集め、国を守らせたらよかろうか。
「大風の歌」として知られるこの歌も、「垓下の歌」と同じく、「楚歌」の形式で歌われています。
項羽は、絶望の淵で悲痛をこらえながら歌い、一方、劉邦は、それとは対照的に、歓喜の絶頂で意気揚々と声高らかに歌っています。
烏孫公主「悲愁歌」
烏孫公主(うそんこうしゅ)は、その名を劉細君(りゅうさいくん)といいます。漢の武帝の甥、劉建(りゅうけん)の娘でした。
政略結婚のため、西域の烏孫国(うそんこく、今の新疆ウイグル自治区)の王に嫁ぎました。
年老いた烏孫王とは言葉も通じず、風俗も漢民族とは何もかも異なっていました。
烏孫公主が薄幸の我が身を嘆いて歌ったとされる「悲愁歌」が後世に伝わっています。
――漢王室は、わたしを天の果てに嫁がせ、
今こうして異国の烏孫王に身を託しています。
この地は包(パオ)を家屋とし、毛織物を垣根とし、
肉を食べ、羊の乳を飲み物にしています。
明けても暮れても故郷のことを思い、心を痛めています。
ああ、願わくは黄鵠(渡り鳥)となって故郷に飛んで帰りたい。
烏孫王が老衰すると、公主は、その孫の妻となるよう命じられます。
当時の遊牧民には、夫が死ぬと、未亡人となった妻は、その子や孫が娶る習俗がありました。
公主の場合は、まだ夫が存命のうちに、その孫に嫁がされました。
これは、儒家思想に基づいて親子関係を人倫道徳の基本としている漢民族の女性にとっては、この上ない屈辱です。
武帝に帰還を嘆願しますが聞き入れられず、元夫の孫の子をもうけ、ついに西域の地で病没します。
今回読んだ4つの「楚歌」は、いずれも感情を強く表出する悲歌慷慨の歌であり、その母体となっている『楚辞』の伝統を受け継いでいます。
のち、詩の主流が五言詩、七言詩となっていくにつれ、「楚歌」は傍流となり、後世、知識人の間では、ほとんど歌われなくなります。
烏孫公主の「悲愁歌」を見るとよくわかりますが、この詩から「兮」の字を取り除くと、そのまま七言詩になります。
こうして、古典詩は、時を経るにつれて、しだいに定型化されていき、唐代の「近体詩」に至って、字数が限定され、韻律上、技法上の細かいルールが厳格に規定されます。
そこには、形式美を伴う高度な芸術性が認められるわけですが、その一方、字数にすら拘らず、自由奔放に、ストレートに感情を吐露する悲憤慷慨型の「楚歌」の系譜が古典詩史の上でほとんど姿を消してしまったのは、どこか残念なような気がしないでもありません。
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