「玩物喪志」
「玩物喪志」
「玩物喪志」は、「物を玩びて志を喪う」と訓読する。
「物」は、珍奇なものを指すが、「無用なもの」「無益なもの」という含意がある。「志」は、進取の気概を言う。儒家的な経世の思想を抱いた壮志、あるいはそのための学問に励む意志を指す。
「玩物喪志」は、「眼前の無益な享楽に熱中するあまり社会的使命や正当な人生の目標を見失うようなこと」「本来為すべきことを為さずつまらぬことにうつつを抜かしていること」という貶義の成語である。
『書経』における「玩物喪志」
「玩物喪志」の語は、最も古くは「玩人喪德、玩物喪志」という対句で、『書経』「旅獒」に見える。
武王が殷の紂王を討つと、異民族の諸国が次々に周王朝に帰順して朝貢するようになる。西方の旅国が獒という大型の犬を貢いだ際、太保の召公が王を訓導して進言した言葉の中に次のようにある。
ここでは、「玩物」の「物」は、「用物」(実用的な日常の物品)に対する「異物」、すなわち実用に供することを目的としない珍奇な物品を指す。 諸国から献上された服飾・器物・禽獣など珍しい物に心を奪われ国政を誤ることのないよう諫めた言葉である。
のち、経書関連の書籍は言うまでもなく、広く諸々の文章一般において、「玩物喪志」の語は、『書経』の一節をそのまま引用して、あるいはそれを明白に意識して用いられるようになる。
宋学における「玩物喪志」
宋代に至ると、『書経』の一節に沿った用い方とはまた別に、新たに特殊な用い方がなされるようになる。
宋学において、「記誦」が真の学問ではないこと、および「作文」が道を害することを説くに当たって、「玩物喪志」の語が用いられている。
『近思録』「爲學」第二十七条に、程顥(字は明道)の言説を引いて、
とある。この条は『程氏遺書』の中に見え、その註に次のようにある。
経書の抜き書きをしたり古人の善行を抄録して冊子としたりするような行為について、程顥がそれらを「玩物喪志」として一蹴したことを伝えている。
さらに、同じ註の下文にはこう記されている。
謝良佐(字は顕道)が、典籍を暗記して問答に備える「記問」を学問となし博覧強記を自負していたところ、それを程顥に「玩物喪志」としてたしなめられた、という逸話である。
さらに、『近思録』「爲學」第五十七条に、程頤(号は伊川)が、門人劉安節の問いに答えた言葉として、次のような一節が記されている。
「作文」(詩文の創作)に専心すると、そのことばかりに志が奪われて道を損なう、とするものである。
このように、『近思録』に見える二程の言論において、「記誦」や「作文」が、ややもすれば人の本心を奪い、学問の妨げとなる行為であるとし、これらを「玩物喪志」と呼んで戒めている。
「記誦」や「作文」は、多大な時間と労力、そして集中的な熱意を要する行為であるが、それらはいわば自己満足、自己顕示の所作であり、本来の志を喪失させかねない有害なものとなり得る、としているのである。
宋代以降、「玩物喪志」の語は、この二程の言説を踏襲して用いられるようになる。「玩物喪志」は、多識博学を恃んだ知識偏重の学問態度を批判し、記問の学を無益で有害なものとして排斥する常套句として定着するようになるのである。
明末の文章における「玩物喪志」
明代末期に至ると、「玩物喪志」は、『書経』に基づく原義や、記問の学を退ける宋学的意義とは別に、知識人の書画骨董の趣味・賞玩についていう言葉として用いられるようになる。
その背景には、この時代、実際にインテリ層の間で書画骨董の蒐集や売買が極めて盛んに行われていたことが関わっている。
陸世儀の『思辨録輯要』巻十「修齊類」に、
とあり、明末の士大夫たちによる器物・骨董に対する嗜好を「無謂」(無意味)として批判している。
しかし、明末の文人の文章においては、必ずしもこのような否定的な見方ばかりではない。
徐有貞の「跋訥菴清玩巻」(『武功集』巻一)は、陳士謙(号は訥菴)の名画コレクションに寄せた跋文である。
「玩物喪志」に対して「玩物得趣」という造語を当てている。「玩物」という行為の結果を必ずしも志を喪うものとせず、むしろ「趣を得る」ものとなることもあるとしている。
また、凌雲翰の「翰墨清事序」(『柘軒集』巻四)は、同じく書画に関する文章であるが、その中に次のような一節がある。
ここでは、「玩物喪志」に対して「玩物適情」の語を当てている。「玩物」が「情に適う」ものである場合は、古人も良しと認めている所作であるとしている。
さらに、高濓の『遵生八牋』卷十五では、文房器具を論じて次のように述べている。
文房趣味が、世に言うところの「玩物喪志」ではなく、人生に喜びをもたらすものであることを語っている。
書画骨董・文房器具など芸術作品や工芸品ばかりではなく、囲碁・博奕のような勝負事や賭け事もまた「玩物喪志」の対象であった。
孫作の「邯鄲枕序」(『滄螺集』巻二)は、次のように述べている。
「棊博」の遊戯にも意を寓する余地があるゆえに、聖人もこれを排斥してはいないとしている。「玩物喪志」の行為に、わずかながらも肯定的な意義を与えたものである。
以上の例から見て取れるように、明末の文章において、「玩物」の行為は必ずしも否定的な結果をもたらすものではないとされている。伝統的な価値観に従えば当然戒められるべきものであるが、時としてそれが生活を豊かにしたり心情を安らかにしたりするという効用を持つ場合もあると認められているのである。
このように、従来は貶義であった「玩物喪志」の語に肯定的意味合いが生じてきたことは、明末の特異な時代思潮と関わりがある。
明末は、商業経済の成長、物質文明の発展に伴って、洗練された都市文化が現出した時代であった。江南の有閑階級の知識人は、趣味の世界に耽溺し、享楽主義的な一種独特の精神文明を生み出した。そうした爛熟した文化的土壌の中で、「賞玩文化」が育まれていったのである。
屠隆の『考槃餘事』や文震亨の『長物志』は、当時の「賞玩文化」を象徴的に示す書物である。
前者では「書・帖・畫・紙・墨・筆・硯・琴・香・茶・盆玩・魚鶴・山齋・起居器服・文房器具・遊具」の十六項目、後者では「室廬・花木・水石・禽魚・書畫・几榻・器具・衣飾・舟車・位置・蔬果・香茗」の十二項目に分類された諸々の「長物」は、まさしく当時の文人たちが愛玩した対象の一覧である。
彼らの多くは、蘇州を始めとする江南の名門豪族の出身であり、園林の中の邸宅で暮らし、書画骨董の類を大量に収蔵していた。そうした優雅で清閑な環境の中で、自然と教養人としての風格が培われていったのである。
明末の文人たちにとって、「玩物喪志」の行為・心態は、もはや恥ずべきことではなく、いわば文人精神を発露する一つの道筋であり、高雅な文人気質を示す一種のステータスシンボルであった。
優美な文物や風趣のある景物を賞玩することは、芸術的感性を磨き、情操を陶冶し、人徳を修養するものと見なされていた。明末の文人たちは、「玩物喪志」の中に、精神世界を充実させ、日常生活の品位を向上させる、という文化的意義を見出していたのである。
「玩物喪志」と「癖」
明末の文人精神における「玩物喪志」は、同じ時期にしばしば注目された「癖(へき)」の概念と相通ずる一面がある。
「癖」は、もともと腹部に塊のできる疾病のことであるが、派生義として、病的に偏った嗜好を言う。「玩物喪志」が、ある特定のものに凝集的に現れれば、それは「癖」と言い換えることができる。現代風に言えば、マニア、オタク、フェチ、偏執狂といったものに近い。
「癖」もまた、元来は貶義の文字であり、伝統的士大夫の道徳において戒められてきた悪しき習性を表す。
ところが、明末に至ると、諸々の伝統的な価値観が顛倒し個性尊重が唱われた特異な時代環境の中で、「真」を求める人間論の一環として「癖」を称揚する風潮が生まれた。
明末においても、世間一般の通念としては、「玩物喪志」も「癖」も好ましくないものであり、当時の士大夫の多くは、これらを悪習として退けた。
その一方、一部の有閑文人たちは、「玩物喪志」に甘んじ「癖」に埋没し、風雅な文物に囲まれ、恍惚とした陶酔の中で清逸な日々を享受していたのである。