香港映画『ルージュ』(原題『胭脂扣』)~アニタ・ムイ + レスリー・チャン共演の隠れた名作
『ルージュ』(原題『胭脂扣』)は、1987年の香港映画。
愛情に殉じた女性の魂が、50年後の世に再び現れ、一緒に死んだはずの昔の恋人を捜す、という物語である。
記事タイトルで「隠れた名作」としたのは、あくまで日本でのことであり、
香港ではとても有名な映画だ。
↓↓↓ この短い MV からも、映画全篇に溢れる妖艶な情趣が伝わってくる。
主演は、アニタ・ムイ(梅艶芳)とレスリー・チャン(張國榮)。
どちらも、香港のトップ歌手であり、トップ俳優だった。
奇しくも、アニタ・ムイは病魔に冒され、レスリー・チャンは自ら命を絶ち、二人とも若くしてこの世を去った。
映画の原作は、香港の人気女流作家、李碧華の小説である。
同題で、映画公開の2年前、1985年に刊行されたものである。
映画は、ほぼ原作通りのストーリーだが、閻魔大王のプロットはない。
また、ラストシーンが異なっている。
映画では、十二少と再会を果たした如花が、こう語る。
「十二少、あたしのこと覚えていてくれたのね。この口紅入れ、53年間ずっと身につけていたの。でも、あなたに返すわ。もうお待ちしませんから」
こう告げて、如花は、光に包まれて去って行く。
↓↓↓ 映画のラストシーン
口紅入れは、物語のキーアイテムになっている。
53年前、十二少は如花に愛の証として口紅入れを贈っている。
旧時の口紅入れは、懐中時計のような形状で、如花はこれをペンダントにして身につけていた。
タイトル『胭脂扣』の「胭脂」は口紅のことで、邦題『ルージュ』はこれに拠っている。
口紅入れは、通常「胭脂盒」と書くが、作者李碧華は、わざわざ「胭脂扣」と書いている。
「扣」は、もともと留め金のことであり、冥土と現世に別れてしまった二人の縁を繋ぎ留めているもの、すなわち如花の情念を象徴するものである。
さて、原作者の李碧華と作品の時代背景について、少し触れておきたい。
李碧華は、香港で生まれ育った生粋の香港人作家である。
テレビドラマの脚本家、新聞記者、小学校教師などを経て専業作家となり、新聞・雑誌にコラムやエッセイを連載して人気を博した。
中編・長編の小説も数多く手がけ、『胭脂扣』のほか、『覇王別姫』『青蛇』『秦俑』『生死橋』『誘僧』『川島芳子』『潘金蓮之前世今生』など、いずれもロングセラーとなり、そのほとんどが映画化されている。
以前記事を書いた映画『さらば、わが愛』も、李碧華の小説『覇王別姫』を改編したものだ。
ちなみに、レスリー・チャンは、『さらば、わが愛』でも、京劇の女形役で主演を務めている。
李碧華の小説は、概ね男女の愛情をテーマとしているが、多くは香港の歴史、政治、社会を背景として描かれている。
十二少と如花が出会ったのは1930年代、石塘咀の妓楼街である。死んだ如花が幽霊となって十二少を捜しにこの世に現れるのは、その50年後、80年代の石塘咀の街中である。
この「50年後」という設定には意味があり、香港返還交渉の際に鄧小平が「一国二制度」を唱え「五十年不変」を約束したことを意識したものだ。
香港人が自分たちの「アイデンティティー」を意識するようになったのは、文化大革命(1966ー76)、そしてそれに触発されて起きた香港暴動(1967)の頃からと言われている。
香港はアジアの商業・金融の中心として空前の繁栄を遂げていた。植民地であったこともあり、香港庶民は自分たちの土地の歴史や文化にはさほど興味を示さなかった。
ところが、香港の本土返還が近づき、文革に象徴される大陸の政治的混乱、社会的後進性、香港との経済的格差が明白になってくると、香港人は、自分たちを民族的に「中国人」であるとするよりも、香港で生まれた「香港人」であるという意識を強く持つようになる。
こうした社会的背景のもとに生まれたのが、80年代後半の「懐旧ブーム」である。
李碧華の『胭脂扣』もこのブームの産物であり、小説・映画の中には、古き良き時代の香港の文物・風景がふんだんに取り込まれている。
こうした原作の小説にちりばめられていた社会的、政治的な色彩は、映画の中では、だいぶ薄められている。
映画は、商業ベースの産物であるから致し方ないことであるが、専ら如花と十二少の悲恋物語に終始している。
そういう意味では、原作に忠実ではないのかもしれないが、アニタ・ムイとレスリー・チャンの妖美なオーラが漂う名演技は、それを補って余りある。
日本ではそれほど知名度のある映画ではないが、香港好きの方々には、是非お薦めしたい隠れた名作である。
現在、Amazon Prime 、Hulu で配信中。
映画あらすじ(中国語)