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「シルクロードの砂漠を行く」という漢詩
「磧中作」(磧中の作)
唐・岑参
走馬西來欲到天 馬を走らせて西来 天に到らんと欲す
辭家見月兩囘圓 家を辞してより 月の両回円かなるを見る
今夜不知何處宿 今夜は知らず 何れの処にか宿るを
平沙萬里絶人煙 平沙万里 人煙絶ゆ
唐王朝は、ウイグル族・チベット族など異民族との交戦が絶え間なく続きました。盛唐期には、岑参・高適・王昌齢・王之渙ら多くの詩人によって、「辺塞詩」と呼ばれる詩が作られました。西北の国境地帯での過酷な従軍の体験や荒涼たる自然の光景、エキゾチックな西域の風物などを題材として歌った詩です。
岑参は、天宝八載(749)と十三載(754)の二度にわたり、節度使の属官として西域の安西と北庭(共に新疆ウイグル自治区)に赴任しています。七言絶句「磧中作」は、このどちらかの行旅の途中での作です。「磧」は小石混じりの砂地。ここでは、タクラマカン砂漠(またはゴビ砂漠)を指します。かのシルクロードの通る砂漠地帯です。
馬を走らせて西来 天に到らんと欲す
家を辞してより 月の両回円かなるを見る
――馬を走らせて西へ西へと進む。このまま進めば、天にまで届いてしまいそうだ。我が家に別れを告げてから、すでに月が二度満ちるのを見た。
中国の地勢は西高東低ですから、西へ西へと向かうと、標高がどんどん高くなり、いつしか天に到ってしまう、という発想です。
月が二度満ちるということは、二ヶ月が経過したということです。周囲に何もない砂漠地帯では、月の満ち欠けが時の経過を知る唯一の手掛かりです。やりきれないほど単調な日々が延々と続くさまを歌っています。
なお、ここで駱駝ではなく馬を登場させているのは、大地を駆け抜ける馬のスピード感や躍動感を強調するためのものです。古典詩では、馬はしばしば壮大な行旅や果敢な冒険を象徴する存在であり、岑参の詩もその伝統を踏襲しています。
今夜は知らず 何れの処にか宿るを
平沙万里 人煙絶ゆ
――今夜はいったいどこに宿ることになるのだろうか。
広く平らな砂漠が万里の彼方まで続き、人家の炊煙も見えない。
煙は、軍事の狼煙にも用いるように、本来は遠方からでも見ることができるものです。その煙さえ見えないというのは、人の生活領域から遥かに隔たった場所にいる状況を表しています。
「磧中作」は、人里を遥か離れた砂漠を行く孤独、不安、望郷の念を歌った詩ですが、作中に「寂しい」「辛い」など感情や心理を直接表す言葉は、一つも使われていません。何の飾り気もなく、ただひたすら行旅の単調なさまと眼前の風景の殺伐たるさまを淡々と素描することによって、かえって詩人の心細さがよく伝わり、言外に深い余韻を残しています。
辺塞詩は必ずしも詩人の体験に基づくものではなく、西域を象徴する典型的な詩語を並べて想像で詠んだものも多く見られます。そうした中で、岑参は実際に西域に赴任した体験を歌っています。岑参の詩の持つ迫力は、作者の実体験に裏打ちされた臨場感によるものと言ってよいでしょう。
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