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「明哲保身」


儒家の「明哲保身」

「明哲保身」の原義は、

優れた知恵を働かせて賢明に物事を判断し、危険を招く恐れのある事柄には関与せず身を安全に保つこと

である。賢明で安全な処世の法を言う。

「明哲保身」は、『詩経』「大雅・烝民」篇に見える詩句に由来する。

肅肅王命   粛粛たる王命
仲山甫將之  仲山甫ちゅうざんほ 之をおこな
邦國若否   邦国 したがうや否や
仲山甫明之  仲山甫 之を明らかにす
旣明且哲   既に明にして且つ哲
以保其身   以て其の身を保つ
夙夜匪解   夙夜しゅくや おこたるにあら
以事一人   以て一人につか

仲山甫が周の宣王を輔佐し、王命を正しく執り行い、諸侯の国々によく対処したことを讃える詩である。

この中の二句「旣明且哲、以保其身」は、仲山甫が「明」(物事の理に明るい)であり且つ「哲」(知恵が優れている)であり、それゆえ「身」を無事に「保」ったことを褒め称えるものであり、これを4文字に縮めたものが「明哲保身」である。

この二句は、聖人を志す君子の心得を述べた『中庸』第二十七章に引かれている。

国に道有れば、其の言以ておこるに足り、国に道無ければ、其のもく以てるるに足る。詩に曰く、「既に明らかにして且つ哲、以て其の身を保つ」とは、其れ此のいいか。

国に正しい道が行われていれば、賢明な言説を尽くして政治に参画し、国に道が行われていなければ、沈黙を守って自己の身を全うする。そうした生き方を「明哲保身」としている。

同じ主旨の言説は、『論語』「泰伯」篇に、

危邦には入らず、乱邦には居らず。天下に道有れば則ちあらわれ、道無ければ則ち隠る。邦に道有るに貧しくして且ついやしきは恥なり。邦に道無きに富みて且つ貴きは恥なり。

とある。

また『論語』「衛霊公」篇にも、

直なるかな史魚しぎょ、邦に道有れば矢の如く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな蘧伯玉きょはくぎょく、邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち巻きて之をふところにすべし。

とあり、孔子は史魚と蘧伯玉を並べて、双方共に褒め称えながらも、矢の如く「直」な史魚に対して、出処進退に融通を効かすことができる、つまり「明哲保身」を心得ている蘧伯玉の方をより高く評価している。

これらの言説から窺えるのは、「世の中が正しければ出て仕える。そうでなければ隠れて自己修養に努める」という儒家の処世観である。

これは、風見鶏のように定見を持たない無節操な言動を言うものではない。状況を見極める正しい判断力と、それに従って臨機応変に出処進退を切り替える行動力を言うものであり、真の賢明さを示す人徳の一つとされるものである。


道家の「明哲保身」

「明哲保身」は、儒家の経典を語源とする言葉であるが、また災禍を避けてしなやかに生きることを良しとする道家の思想に合致した言葉でもある。

『老子』に見る処世観は、何はともあれ生きながらえることに最大の価値を置いたものである。

『老子』第二十二章に、

曲ぐれば則ち全く、ぐれば則ち直し。

とあるように、道家は柔軟に己を曲げて身を全うすることを説く。

また、第四十四章に、

名と身といずれか親しき。身と貨と孰れかまさる。

とあるように、儒家が重んじる名声や世俗が追い求める財貨を無意味で有害なものとして退け、身を安泰に保つことが何よりも切実であるとしている。

そして、「明哲保身」の生き方として老子が具体的に唱えたものが「知足」と「寡欲」であった。

同じく第四十四章に、

足るを知ればはずかしめられず、止まるを知ればあやうからず、以て長久なるべし。

とあり、また第四十六章に、

罪は欲すべきより大なるはく、禍は足るを知らざるより大なるは莫く、とがは得んと欲するより大なるは莫し。

とある。

老子が欲望を否定し、知足を唱えるのは、一にも二にも身の安全のためであり、その目的は、天寿を全うすることにほかならない。危うい状況を避けて老獪に立ち回り、ものに執着することなく恬淡として生きながらえるのが、老子流の「明哲保身」である。


「漁父」の「明哲保身」

『楚辞』「漁父」では、朝廷から放逐され、世の混濁と自らの清廉を訴える屈原に対して、漁師がこう語りかける。

聖人は物に凝滞ぎょうたいせずして、能く世と推移す。世人皆濁らば、何ぞ其の泥をにごして、其の波を揚げざる。衆人皆酔わば、何ぞ其のかすくらいて、其のすすらざる。

世俗の塵埃にまみれることを潔しとしない屈原に対して、漁師は莞爾として笑い、こう歌いながら去って行く。

滄浪そうろうの水まば、以て吾がえいあらうべし。滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯うべし。

両者の対話を通して、屈原と漁師の処世観の違いが浮き彫りにされる。

「世が清ければ出仕し、濁っていれば隠れる」という発想は、上で見た儒家の処世観と通じる。

また同時に、物に拘泥しない漁師の言辞は、老荘的な「明哲保身」の思想を最も文学的に体現したものと言ってよいであろう。


「明哲保身」と「佯狂」

古来、中国では、多くの場合は役人である知識人たちが、平穏無事に生涯を終えること自体が容易ではない。

それゆえに「明哲保身」が臣下たる者の徳として称揚されたわけであるが、これを実践するために、彼らがしばしば採った方策が「佯狂」であった。

「佯狂」とは、狂気を装うことである。病理学的な狂気を持たない者があたかも狂っているかのように振る舞うことを言う。

官界に身を置く者が困難な状況に陥った際に、韜晦的な所作によって難を逃れる方策であるが、命に関わる危急の事態においては、それを回避するための最終手段である。

中国の精神文化史の上で、「佯狂」の系譜の最初に位置するのが箕子と接輿である。

孔子は、殷の紂王の暴政下でそれぞれ異なる道を選んだ微子・箕子・比干らを「三仁」と称えた。

この三人の仁者について、『史記』「殷本紀」はこう記している。

ちゅう愈々いよいよ淫乱して止まず。微子びし数々しばしば諫むれども聴かず、乃ち太師・少師と謀り、遂に去る。比干ひかん曰く、「人臣為る者は、死を以て争わざるを得ず」と。すなわち紂を強諫す。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人のむねには七竅しちきょう有り」と。比干をきて其の心を観る。箕子きし懼れ、乃ち狂をいつわりて奴と為る。

微子は、王の暴虐無道を何度も諫めたが聞き入れられず、国外へ亡命した。比干は、命を賭して王を諫めた結果、王の怒りを買い、ついに胸を割かれて死んだ。そして箕子は、比干の末路を見るや、髪を振り乱して狂人の真似をし、奴隷となって身を隠したという。

一方、接輿は、春秋時代、乱世を避けて狂人の如く振る舞っていた楚の隠者である。

『論語』「微子」篇に、次のような逸話がある。

楚の狂接輿せつよ、歌いて孔子を過ぎて曰く、「鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず、来る者は猶お追うべし。みなん、已みなん、今の政に従う者はあやうし」と。孔子下り、之と言わんと欲す。はしりて之をけ、之と言うを得ず。

乱世に道を説いて回る孔子の前を歌いながら通り過ぎ、今の世の中で政治に関わるのは危ないことだと諭している。

「狂」を装って世を避ける、という箕子や接輿の生き方は、乱世における「明哲保身」の処世術にほかならない。

世の大勢に逆らわず、賢明に物事を処理して我が身を災禍から守る、という生き方は、古来、政治に携わる者がしばしば選んだ道であった。

中国の歴史上、とりわけ魏晋や明末清初など政情の不安定な時期において、知識人たちは自らの身を守るために、しばしば「佯狂」を演じてきた。

「佯狂」は、決して消極的な生き方ではなく、険難な時代を生き抜くために知識人たちが経験的に学び得た知恵である。理念や道義を振りかざしてポッキリ折れてしまうよりも、風に靡いて逆らわずに身を安全に保つ方が賢いとする考え方である。

「明哲保身」は、古代中国の大地に生きた知識人たちが培ってきた、骨太で、したたかな、頗る大陸的な精神文化を投影させた言葉である。

「狂」であろうが何であろうが、とにかく死なずに生き抜くことが一番大事という「生」に対する執着の強さは、中国の民族性で際立った特質である。

儒家は、現世のみを語る倫理道徳思想であり、死後のことは語らない。不老長生を説く道教は、現世を永遠に引き延ばそうという発想だから、「生」に対する執着の度合いで言えばその最たるものである。

古来、中国で「明哲保身」が重んじられてきたのも、根源的には、こうした「生」に対する執着の強さに由来するものであるように思う。


*本記事は、以下の記事を簡略に改編したものである。


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