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【心に響く漢詩】孟浩然「春曉」~日本で最も有名な漢詩の読み方

孟浩然

   春曉      春暁(しゅんぎょう)
                     唐・孟浩然(もうこうねん)
  春眠不覺曉   春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚(おぼ)えず
  處處聞啼鳥   処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞(き)く
  夜來風雨聲   夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声(こえ)
  花落知多少   花(はな)落(お)つること知(し)る多少(たしょう)

 孟浩然(689~740)は、唐代の李白、杜甫・王維と並んで「盛唐四大家」と称される詩人です。

 孟浩然は、四十歳の時に科挙の進士の試験を受けて落第した後、呉越(江南地方)を数年間遊歴し、その後、故郷襄陽(湖北省)の鹿門山で隠遁生活を送りました。

 世俗から離れた高雅な境地を明朗清爽な山水景物の詩に歌っています。

 孟浩然の詩は、言葉が平淡自然で、しかも温かみを感じさせる味わい深い趣があります。

 五言絶句「春暁」は、鹿門山に隠遁していた時の作とされています。
 
 中学校の漢文教科書や漢詩の入門書では必ず採録されている作品で、おそらく日本で最も人口に膾炙している漢詩と言ってよいでしょう。

 中国語の初級教材で、発音練習の仕上げに漢詩を暗誦する時にも、この詩がよく使われています。

春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚(おぼ)えず
処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞(き)く

――心地よい春の眠り。つい寝過ごして、夜が明けたのも気づかなかった。
  あちらこちらから、鳥のさえずりが聞こえてくる。

 「聞」は、聞こえる。「聽」が、聞こうと意識して耳を澄ますことであるのに対して、「聞」は、無意識に自然と耳に入ることをいいます。  

夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声(こえ)
花(はな)落(お)つること知(し)る多少(たしょう)

――昨夜は、風や雨の音が激しかった。
  咲いていた庭の花は、どれほど散ってしまったことやら。

 「花」が何の花なのかは諸説ありますが、漢詩の詩的イメージとしては、春の花の色は「紅」ですので、桃の花を想像すればよいでしょう。

 「知」は、下に疑問詞を伴うと、自問的な言い方になります。「知多少」は、いったいどれくらい散っただろうか、という意味です。

 「春暁」は、ごく平易な言葉を以て、春の風趣を存分に伝えています。
 
 春ののどかな風情と隠棲している詩人の悠長な心境とがうまく一つに溶け合っています。

 気だるくも快い春、朝寝坊している詩人は、鳥のさえずりでようやく目を覚まします。

 描かれている光景は、窓を開けて目に入った景色ではありません。昨夜の風雨から庭の様子を想像した景色です。

 すべてはまだ寝床の中で、ぼんやりとした夢うつつの脳裏に展開される春の情景なのです。

 水に濡れた鮮やかな花びらが庭一面に散り敷かれている・・・、そんな詩人の想像をわたしたち読み手が想像する、という仕組みになっています。 

 さて、この詩は、このように春の風情を歌った詩という解釈だけでも十分に味わいのある作品になっていますが、さらに、作者の人と為りや置かれた境遇を考え合わせると、また別の解釈が可能になってきます。

 そのポイントは、起句で歌われている「朝寝坊」にあります。

 石川忠久氏は、この詩の背景について、次のように解説しています。

「これは、単に春の眠りが気持ちがよい、と詠うだけのことではない。実は、ぬくぬくと春の眠りを貪っているのは、宮仕えなどしない人物、すなわち隠者のごとき高士のありようなのだ。当時は、高級官僚ほど出仕が早かった。それこそ星をいただいて家を出なければならない。そんな浮き世のしがらみをよそに、我関せず、と高枕の姿が、ここにある。」(石川忠久『漢詩のこころ』時事通信社)

 つまり、この詩は、春の心地よさを表現しただけのものではなく、俗世のしがらみに縛られない解放感を込めて歌ったものである、という解釈です。

 そのように考えると、白居易の有名な詩「香爐峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」の首聯についても、同様の解釈ができます。

  日高く睡り足りて 猶お起くるに慵(ものう)し
  小閣に衾(きん)を重ねて 寒を怕(おそ)れず

(日はすでに高く、眠りも足りているのに、まだ起きるのは気だるい。
小さな家ながら、布団を重ねていれば、寒さの心配もない。)

 この詩は、白居易が江州(江西省)に左遷されていた時の作です。
 中央の朝廷では、朝早くから衣冠を整えて登庁しなければなりませんが、地方では、その必要はありません。

 この二句は、政務に忙殺される生活から解放されている自由気ままな心境を歌ったものです。

 朝寝坊は、帰隠や左遷によって、俗世から退いたり、中央から離れたりした者に与えられる「特権」なのです。

 詩が作られたのは、孟浩然の場合も、白居易の場合も、政治的に挫折した時期であったかもしれませんが、生活の上では、時間的にも、心理的にも、余裕があったはずです。

 そうしたゆとりのある生活の中でこそ、春の花、鳥のさえずり、山の雪景色、古寺の鐘の音など、視覚的にも、聴覚的にも、それまで気づかなかった周囲の世界の何気ない美しさにふと気づき、詩人の感性を心地よく刺激するのかもしれません。



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