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2つの「靜夜思」
李白の有名な詩に「靜夜思」があります。
前回の記事「望郷を歌う漢詩3選」の中でも採り上げました。
詩は次のような五言絶句です。
牀前看月光 牀前 月光を看る
疑是地上霜 疑うらくは是れ 地上の霜かと
擧頭望山月 頭を挙げて 山月を望み
低頭思故郷 頭を低れて 故郷を思う
静かな秋の夜、寝台の前まで差し込む月の光を見る。
あまりの白さに地面に霜が降りたかと見まごうばかり。
頭をもたげて、山上の月を眺め、
頭を垂れて、遥か遠い故郷を思う。
今回の記事は少々細かい話になります。
「靜夜思」の起句は、版本によっては次のようになっています。
牀前明月光 牀前 明月の光
「牀前看月光」と「牀前明月光」とでは、文法構造は異なりますが、一句の意味内容はほとんど同じです。
ただ、前者が、月の光を「意識的に見ようとして見る」のに対して、後者は、「無意識のうちにふと目に入る」となりますので、醸し出す詩情に若干の違いが出てきます。
さらに、転句も、版本によっては、
擧頭望明月 頭を挙げて 明月を望み
というように、「望山月」が「望明月」になっています。
「看月光/望山月」は、明の『唐詩選』に、「明月光/望明月」は、清の『唐詩三百首』に、それぞれ拠った詩句です。
日本の漢文教材は、『唐詩選』の方を採っています。それには、江戸時代以来、日本の漢学が『唐詩選』を漢詩の権威として位置づけてきたという背景があります。
ですから、わたしたちが中学高校で漢詩を習う際も、「靜夜思」は例外なく「看月光/望山月」のバージョンで習っています。
一方、中国では、この詩はほとんどの人が暗誦できますが、『唐詩三百首』の方で覚えている人の方が圧倒的に多いようです。こちらは、中華文化圏では『唐詩選』より『唐詩三百首』の方がずっと広く流布しているという背景があります。
ですから、中国人の前で「看月光/望山月」のバージョンで「靜夜思」を語ったりすると決まって「それは間違いだ!」と言われます。
いずれにしても、李白本人が詠んだオリジナルは一つしかありませんから、どちらかが原作で、どちらかがそうではない、ということになります。
古い時代は、詩文は基本的に書写で後世に伝わっていきます。ですから、時が経つにつれて、誤写が生じて字句が変わってしまうことがあります。
ちなみに、誤写には主に二つのパターンがあります。
一つは、見間違えです。一人で書写する場合、字形の似ている文字に写し誤ることがあります。
もう一つは、聞き間違えです。一人が原本を読み上げ、もう一人が書写するという共同作業の場合、発音の似ている文字に書き誤ることがあります。
これらは単純な「ミス」なわけですが、ここで一つそれ以上に厄介なことがあります。
識字率の低い古代中国では、書写する人はみな知識人なわけで、自分の文才には自信を持っています。しかも、中国人は、古来、オリジナルを尊重する気風がありません。
そこで、詩文を書き写す際、自分が気に入るように勝手に文字を書き変えてしまうということが往々にしてあるのです。
宋代以降、書物が活字で出版されるようになってからも同様に、編纂者が勝手に文字をいじってしまうことがままあります。
「靜夜思」の場合、二つのバージョンの異なっている箇所の文字「看」と「明」、「山」と「明」は、字形も発音も似ていませんから、故意の改変によって違いが生じたとしか考えられません。
どちらが李白のオリジナルかは俄には断定できませんが、単純に推測すれば、より古い版本の方がオリジナルに近いと考えられます。
最も古い版本である宋蜀本『李太白文集』では「看月光/望山月」となっていますので、こちらをオリジナルと見なすのが妥当でしょう。
また、李白研究の大家である清・王琦が編纂注釈した『李太白全集』でも、「看月光/望山月」のバージョンを底本に用いています。
一方、「明月光/望明月」のバージョンの版本が現れるのは明代以降です。
こうなると、どちらが李白のオリジナルかという議論は「看月光/望山月」の方に軍配を挙げざるを得ません。
しかしながら、前述の通り、中国の人々はほとんどみなが『唐詩三百首』のバージョンで覚えています。ですから、書家が筆を揮う時も、小学生が教室で暗誦する時も、李白の「靜夜思」と言えば、「明月光/望明月」でなくてはならないのです。
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