「白鬚の太守亦何ぞ痴なる」~唐詩人・白居易の「痴」
要旨
「痴」は、精神の働きが鈍い一種の病態を表す文字である。中国古典詩においては、六朝以前にはほとんど用例を見ない。初唐・盛唐においても使用頻度は少なく、意味範疇も限定されている。
中唐に至って、ようやく詩語として確立され、白居易を初めとする多くの詩人において、愚昧・無知、幼稚・未熟、遅鈍・停滞など、さまざまな意義を以て歌われるようになる。
魏晋の王湛や顧愷之の逸話を典故とする詩からわかるように、「痴」は、時として、世俗との隔たりを示す概念となり、一種の高雅な趣を表出する。それゆえに「痴」字は、肯定的な含意と思想的・文学的な厚みを持ちうるようになり、やがて詩人たちが自嘲の裏に秘めた自負の念を歌う際にしばしば用いられるようになる。
はじめに
「痴」(本字は「癡」)は、『説文解字』に「慧ならざるなり」とある。慧くない、賢くないという意味である。
『説文解字繋伝』には、「痴者は、神思足らず、故に亦病なり」とあり、『説文解字注』には、「痴者は、遅鈍の意、故に慧と正に相反す。此れ疾病に非ざるも、而して亦疾病の類なり」とある。
つまり、機敏で活発な「慧」と相反して、「痴」は、精神活動が遅鈍であることをいう。元来は、病気の範疇に入る精神状態を指すものであるが、治療の対象となる病理的な意味での疾患とは区別される。
また、「痴」には、派生義として、何か一つのことに耽溺するという意味がある。特定のことに極端な執着を示し、周囲の目には愚かしく映ることを指す。「書痴」「花痴」「石痴」などがそうであり、男女の情愛については「情痴」がこれに当たる。
さらに、特殊な意味として、仏教において、「痴」は、梵語 moha の漢訳であり、ものの道理がわからぬこと、心が暗くて的確な判断ができずに迷い惑うことをいう。悟りを妨げる煩悩の一種とされ、三毒(「貪・顛・痴」)の一つに数えられる。
一 古典詩における「痴」
中国古典詩における「痴」字の用例は、古くから見られるものではない。『詩経』と『楚辞』にも、また『文選』にも用例がない。
漢魏から六朝に至る著名な詩人を個々に見ても、例えば、三曹(曹操・曹丕・曹植)、阮籍、嵆康、陶淵明、謝霊運らの詩の中には、いずれも「痴」の用例が皆無である。
六朝以前の詩で「痴」字の用例が見られるのは、現存する主要な文献の中では、枚乗と蔡琰にそれぞれ一首ずつあるのみである。
唐代に至って、ようやく「痴」字の用例が徐々に増えるようになる。『全唐詩』に従って、詩人別の使用頻度を挙げると、以下の通りである。
【初唐】宋之問1
【盛唐】王維3 李白1 杜甫4
【中唐】韋応物1 王建2 権徳輿1 韓愈7 孟郊7 廬仝9 劉叉1
元稹9 白居易16 姚合3
【晩唐】杜牧2 李商隠3 劉徳仁1 鄭嵎1 李群玉2 温庭筠1
皮日休4 陸亀蒙3 司空図1 李咸用2 方干1 羅隠1
鄭谷1 韓偓2 杜荀鶴1 韋荘2 徐夤1 廬廷譲1 曹松2
裴説1 李洞1
【五代】李衍1 和凝1 李建勲1 韓定辞1
【釈家】寒山23 拾得7 可止1 貫休5 斉己3 可朋1
上の数字を通覧してわかるように、初唐・盛唐は「痴」字の用例が、まだごくわずかである。個々の詩人において、ある程度まとまった数の用例が見られるようになるのは中唐以降であり、詩語としての「痴」は中唐に始まると言ってよいであろう。
このことは、中唐の詩風と無関係ではなかろう。中唐の詩人たちは、それまで詩に詠まれなかったような文字を好んで用いた。とりわけ韓愈の詩派の一つの特徴として、奇をてらったような語彙を用いる傾向がある。そうした中で、詩語としてはほとんど顧みられていなかった「痴」が、詩の中で歌われるようになったと考えることができる。
しかしながら、中唐以降でも、柳宗元や劉禹錫のように「痴」字を全く用いない詩人も存在し、また韓愈の詩派の中でも、李賀や賈島には用例がない。逆に、韓愈らとは詩風が対照的な白居易や元稹には、多くの用例が見られる。けだし、「痴」字を詩語として用いるか否かには、詩人の好みが顕著に現れるようである。
なお、寒山には23個の用例が見られ、上の表では突出して多い。これは、前述のように、釈家において「痴」は煩悩の一種とされ、仏教用語としては「痴」字が古くからごく普通に用いられていたことと関わりがある。
宋代に至ると、「痴」字の用例は飛躍的に多くなる。蘇軾は『東坡詩集』の中に44個の用例があり、陸游は『剣南詩稿』の中に179個の用例がある。この二人の詩人の使用数を合わせると、『全唐詩』における唐代の全詩人の使用総数を上回る。
二 初唐・盛唐における「痴」
初唐においては、王勃をはじめとする「四傑」や陳子昂・沈佺期らには、「痴」字の用例が全くない。宋之問の「放白鷴篇」に、わずか一例見えるのみである。
「驕癡」は、幼い子供たちの天真爛漫なさま。ここでの「痴」は、年齢的にまだ分別のつかないさまを言うものであり、知能的に劣るという意味ではない。
盛唐では、李白の「公無渡河」詩には、髪を振り乱して黄河を渡ろうとする気の触れた老人が登場する。
「狂而癡」は、気が触れて思慮を欠くさまをいう。抗しがたい風波に対して狂おしい抵抗を試みる老人の姿に、詩人李白が自分自身の姿を投影させたものである。
杜甫の「北征」詩は、我が家に帰った夫を迎える妻子の姿を歌う。
「癡女」は、頑是ない娘。まだ幼くて知恵のつかない、あどけない娘のことをいう。愚昧・無知という貶義は含まれない。世の騒乱や詩人杜甫が経験してきた苦難のことなど解する由もない幼子の天真爛漫なさまをいう。
三 中唐・晩唐における「痴」
中唐に至って「痴」の用例が俄に多くなる。「痴」字は、ただ使用頻度が増したばかりでなく、その用いられ方において、詩語としての厚みと深みを帯びるようになる。
(一)愚昧・無知の「痴」
白居易の「對酒五首」(其二)は、自らの処世観を披瀝して、次のように歌う。
はかない人生、それぞれ身分に応じて歓楽を尽くせばよい、愉快に笑いながら日々を送れない人間は愚か者だと語っている。
同じ白居易の「春遊」詩に、
とあるのも、同じ詩意である。
これらの「痴」は、いずれも愚昧・無知を意味するものであるが、道理・情理を解さない愚か者という基本的意義に加えて、風流を解さない、文人らしくない無粋で野暮な男という語気が含まれる。
愚昧・無知の「痴」の例をもう一つ挙げると、白居易の「觀兒戲」詩に、次のようにある。
目の前で何も知らずに遊び戯れている幼い子供と、今や年を取って憂いや悲しみの多い私と、いったいどちらが「痴」なのだろうか、という自分自身への問いかけである。無知・幼稚な者を「痴」とする一般通念を逆手にとって、そもそも愚かさとは何かを問う思索性のある詩である。
中唐・晩唐における詩語としての「痴」は、ただ人や己を愚かと呼ぶだけのものではない。「痴」字をめぐって、そこに文学的な風趣を醸し出そうとしたり、哲学的な議論を提示しようとしたりする新たな傾向が認められる。
(二)幼稚・未熟の「痴」
白居易の「念金鑾子」詩は、次のように歌う。
上に挙げた杜甫の詩と同じく、自分の子に「痴」字を用いている。
「嬌癡」は、無邪気であどけないさまをいう。わずか三歳で亡くなった娘に対するいとおしさの情が含まれよう。
幼稚・未熟の意で「痴」字を用いるのは、必ずしもまだ物心のつかない幼児についてのみではない。十代の男女についても用いる。
同じ白居易の「秦中吟」十首の一つ、「議婚」詩は、次のように歌う。
ここでは、「嬌癡」は、十六歳になった裕福な家の娘が、世慣れずに無邪気なさまをいう。
同じく、「新楽府」五十首の一つ、「井底引銀瓶」に、
とあるのは、若い娘たちに対して、軽率に男に身を任せることのないよう忠告したものである。「癡小」は、年若いがゆえに世故に疎いさまをいう。
また、「狂歌詞」は、年を重ねた白居易自身について歌ったものである。
世の道理や人の情理を十分に解さず、人間としてまだ未熟であることを「痴」と呼んでいる。
(三)遅鈍・停滞の「痴」
遅鈍・停滞の「痴」は、精神状態がぼんやりと鈍くなるさま、あるいは、思考が滞ってしまうさまをいう。
白居易と「元白」と併称される元稹の「連昌宮詞」に、次のようにある。
若い頃、離宮で給仕していた老翁が、往年を思い起こして語る。連昌宮の豪華絢爛たるさまを追想し、まるで夢を見ているかのように恍惚として気が抜けたさまを「痴」字を以て表している。
韋荘の「倚柴關」詩にも、これとよく似た表現が見える。
詩人は、柴門に寄りかかって故郷に思いを馳せながら、終日、独り佇んでいる。微酔い気分で朦朧とするが如く、ぼんやりとした心情を歌ったものである。
これらの「痴」は、一時的に思考が停滞しているさま、あるいは、雑念や邪念のない無心のさまをいう。
「痴」の本字は「癡」であり、これを構成する「疑」字の原義は、「止まって進まないこと」をいう。「癡」はまた「凝」と通じ、頭の働きが一つのことに凝り固まった状態を示す。そうした遅鈍・停滞のさまが、一種の病態とされるまでに至った心理状態を表すのが「痴」なのである。
(四)耽溺の「痴」
特定の物事に対して極度の愛着を示す意の「痴」は、『全唐詩』には用例がない。宋代に至ると、「書痴」を初めとして、「詩痴」「花痴」「銭痴」など、多くの用例が見られるようになる。
一方、男女の情に関する「痴」については、唐末の廬仝の「月蝕詩」に、
とある。牽牛織女の故事に喩えて、男を「痴」、女を「騃」(愚かの意)と形容し、男女の情愛を歌ったものである。
「情痴」は、後世の詩詞、戯曲、白話小説における主要なテーマの一つとなり、情に溺れた馬鹿な男と女は、「癡兒騃女」「癡男怨女」「癡雲騃雨」など、対偶としてさまざまな言い方がされるようになる。
(五)煩悩の「痴」
『全唐詩』では、僧侶による詩の中に、数多くの「痴」字の用例を見ることができる。寒山拾得には、合わせて30個の「痴」の用例がある。
寒山詩における「痴」は、いずれも煩悩による愚昧・無知の意を表す。
項楚『寒山詩注』第243首に、
とあるように、才徳の低い下等な人間が、頑迷で悟らないさまをいうものである。
そうした人々の有様を具体的に歌ったものとして、例えば、第170首に、
とある。「癡愛」は、清浄な心を汚す煩悩としての愛欲をいい、美しい乙女を目にして心を奪われる世間の男たち、色欲に囚われて解脱の境地に至ることができない俗人たちの姿を歌う。
四 「叔不癡」と「癡絶」
魏晋の時代には、当時の社会状況や時代思潮を反映して、「狂」や「痴」を以て知られる名士が輩出し、彼らの反俗的、韜晦的な奇行や愚行を伝える逸話が、史書や逸話集の中に数多く残されている。
そうした名士たちの中で、とりわけ「痴」のイメージが強く、後世の詩の中でもしばしば歌われているのが、王湛と顧愷之である。
『晋書』「王湛伝」、『世説新語』「賞誉」篇には、王済が、叔父王湛の真価を見出す逸話がある。
王湛は、一族の皆から痴れ者扱いされていた。甥の王済も、初めは敬意を払っていなかったが、ある時、叔父が実は学問・技芸に卓越した人物であることを知る。武帝(司馬炎)はしばしば王済をからかって、「卿家癡叔死未」(そちの家の「痴叔」はもう死んだのかな)と言っていたが、王湛の真価を知った王済は、「臣叔不癡」(わたくしの叔は「痴」ではございません)と答え、その才を推奨したという。
白居易は、この逸話を踏まえて、「家釀新熟毎嘗輙醉妻姪等勸令少飲因成長句以諭之」と題する詩の中で、次のように歌う。
醒めて利口でいるよりも、酔って馬鹿でいる方がよほどましだ、という詩意である。劉伶の妻が夫に酒を断たせようとした逸話を併せて引きながら、老年の恬淡たる人生観を語っている。
同じく白居易の「想東遊五十韻」には、
とあり、ここでは、嗣子を絶やした鄧攸の故事と並べて、王湛の逸話を引いている。
晩唐の詩にも、杜牧の「使回枉唐州崔司馬書兼寄四韻因和」に、
とあり、阮咸(字は仲容)の大酒の故事と併せて、王湛が『周易』に精通していたことを詠み込んでいる。
一方、顧愷之については、世間離れした愚かしい言動の数々が、『晋書』や『世説新語』などの書物に記されている。
『世説新語』「文学」篇に収める逸話に付された劉孝標注は、宋の明帝の『文章志』を引いて、次のように記している。
この有名な一節によって、顧愷之は、卓越した画家であり文人であることに加えて、並外れた痴れ者として語り継がれるようになる。
『全唐詩』においては、皮日休の「新秋即事三首」(其一)に、
とあるのが、顧愷之の「痴」を詩の中に直接取り込んだ唯一の例である。
あえて加えれば、韓偓の「味道」詩に、
とあるのは、上の『文章志』に見える桓温の評語を典拠とした詩句である。
宋代に至ると、蘇軾をはじめとして、多くの詩人たちが顧愷之の「痴」を歌うようになる。
例えば、蘇軾の「再用前韻寄莘老」詩は、次のように歌う。
三つの隠れ場を作って身の安泰を図った王衍(字は夷甫)を引き合いに出して、痴れ者は天寿を全うできるけれども、智恵者はその智恵ゆえに身を滅ぼすと歌う。
このほか、李彭「解嘲」詩に、
とあるように、「長康」「虎頭」(顧愷之の字と小字)の語は、古典詩において、あたかも「痴」を象徴する代名詞のように用いられるようになる。
さて、これら王湛と顧愷之の逸話を典拠とした詩において、特に留意すべき点は、両者とも、侮蔑や滑稽の対象ではないということである。
王湛も顧愷之も、表面的には「痴」に見えても、その内実は、決して痴れ者や愚か者ではない。
王湛は、周囲の者が彼の才徳の高さに気づかず、世俗的な目線から痴れ者呼ばわりされていたに過ぎない。
顧愷之は、諧謔的な逸話が多いゆえに、世間には間の抜けた愚かしい人物として伝わっているが、詩人が歌ったのは、彼の虚飾のない純真な人間像、俗気のない本当の芸術家の有様であった。
「痴」という文字が詩の中で歌われる時、それが肯定的な意味合いと思想的・文学的な味わいを持ちうるのは、「痴」という概念が世俗からの隔たりを示すものであるからにほかならない。
「痴」は、「俗」との対峙においては、いわば「雅」を担うものと言ってよい。世俗の常識や価値観に拘泥することなく、世俗的な栄誉や功名を追って汲々とすることなく、泰然自若として自分の学問・芸術の世界に没頭する姿が、一種の高雅な趣を生み出しているのである。
五 自嘲から自負へ
「痴」の原義が否定的なものであるゆえ、元来は、この文字を以て他人を評すれば、軽蔑や誹謗となり、自らを称すれば、自嘲や自戒の意となった。
しかしながら、中唐以降の詩においては、必ずしもそうではない。
孟郊の「戲贈無本二首」(其一)には、
とある。李白・杜甫がすでにこの世になく、彼らが賈島(法号は無本)の「狂癡」のさまを見られないのが惜しいと歌う。
ここの「狂癡」は、賈島の作詩について、舌に「金痍」(刀傷)のような瘡(かさ)が生じてしまうほどの苦吟であることを戯れたものであり、それを誹る意はない。
また、白居易の「種茘枝」詩では、詩人が自らを「痴」と呼んでいる。
「白鬚太守」は、当時、忠州刺史の任にあった白居易自身をいう。たとえ十年後に茘枝が実を結んでも、その時には、わたしはもうこの世にいないであろうに、それなのにせっせと茘枝を植えている、自分はなんと愚かな老人だろうかと歌う。
自らを「痴」と呼び、表面的には自嘲の語であっても、自らの行為を愚行として卑下しているわけではない。
「痴」は、前章で述べたように、詩の中においては、多くの場合、常識的なものの見方や世俗的な価値観を度外視した、超然とした態度を示すものである。
そうした詩における「痴」字には、自嘲の裏側に秘められた、詩人の強い自負の念を看取することができる。
宋代に至ると、自称としての「痴」の用例が頗る多くなる。
蘇軾が「王中甫哀詞」に、
と歌い、また陸游が「思故山」詩に、
と歌う。
「癡鈍老」や「癡腹」には、自らを戯画化した諧謔的語気を漂わせながらも、何物にも動じない悠然とした態度、自分は世俗的社会とは無縁と言わんばかりの傲然とした気構えを窺い見ることができる。
多くの詩人にとって、「痴」と呼ばれることは、それが一種の「雅」の証であったという意味では、むしろ本望であったであろう。そして、自ら誇らしげに「痴」を名乗るのである。
ちなみに、宋代に始まり、「痴斎」(余儔)、「痴叟」(田如鼇)、「痴絶叟」(顧禧)、「痴庵」(祖覚)など、詩人が自らの号に「痴」字を用いたり、あるいは『痴絶集』(林月香)、『痴業集』(羅公升)など、自らの著作に「痴」字を冠したりするようになる。このことは、詩における「痴」の自称と連動するものであろう。
おわりに
「痴」字が、詩語として本格的に用いられるようになるのは、中唐以降である。とりわけ白居易は、同時代の他の詩人と比べて、「痴」字の使用頻度が多く、その用い方にも多様性が見られ、思索的深みと文学的味わいを以て「痴」を歌っている。
晩唐を経て宋代に至ると、「痴」の用例は格段と増し、詩語として常用語の一つとなる。
本稿は、中国古代の思想・文学における「狂」と「痴」の諸相に対する包括的な考察の一環として論じたものである。
(マガジン「中国の思想と文化」に、同じテーマの記事を投稿済。)
「狂」と「痴」は、類義語でありながら、対照的・補完的な概念でもあり、古くから対偶となって詩文の上に現れる。
「狂」字が詩語として確立するのは、「痴」よりも早く、盛唐の李白・杜甫においてであるが、その後、中唐の白居易を経て、宋代の蘇軾・陸游らにより継承され、思索性・文学性を深めていくという経緯は、「痴」字のそれとよく似ている。
また、「狂」においても、杜甫の「狂夫」詩に、
とあるように、「狂」が「痴」と同様に、自嘲を自負にすり替える文人精神を担う役割を果たしている。
なお、古典詩詞全体の上で「痴」を論じる際、宋詞における「痴」に論及しないわけにはいかない。とりわけ、男女の「情」をテーマとする婉約派の詞において、情愛に耽溺するさま、恍惚として精神の凝り固まるさまを表す「痴」は、極めて重要な概念である。これについては、いずれ稿を改めて論じたい。
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