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中国古典インターネット講義【第6回】南北朝の詩~貴族の華麗な詩、遊牧民の雄壮な歌



南北朝時代(五世紀初期から六世紀末)、南では江南の建康(今の南京)を都として次々に王朝が交替しました。

この時代は、貴族文化の全盛期で、文学も貴族趣味的な方向に流れる傾向がありました。

宋・斉・梁・陳の四王朝は、その前の魏晋の時代に比べて、政治的・経済的に安定していた上に、君主自らが詩文を愛好したために、文学活動が盛行を極めました。

詩人達は、貴族らしい洗練された言語で、対象の美を巧みに描写することを競い、そうした中でとりわけ山水詩が盛んに作られました。

山水詩の第一人者が、今回最初に紹介する謝霊運です。

謝霊運

謝霊運(しゃれいうん)(385~433)は、南朝宋の人です。
康楽侯を襲爵したので、謝康楽と呼ばれています。

謝霊運

謝霊運は、南朝を代表する大貴族の家柄でありながら、政界では志を得ませんでした。

豪族の権勢を笠に着て横暴な振る舞いが多く、世の顰蹙を買ったとも言われています。

自らの望みに叶うような要職が与えられず、挫折感と疎外感から次第に政務を怠り、専ら好んで山沢に遊ぶようになります。

かつて政策を非難して永嘉(浙江省)の太守(郡の長官)に左遷され、のち広州に左遷され、最後は、謀反の讒言を受けて死罪になりました。

こうして、役人としては不遇でしたが、詩人としては、文学史の上に燦然とその名を残しています。

謝霊運の詩は、清新かつ巧緻な詩句で山水の自然美を詠じています。

「石壁精舎還湖中作」

ここでは、「石壁精舎還湖中作」と題する詩を読みます。
全16句の五言詩です。

永初三年(422)、謝霊運は永嘉の太守に左遷されますが、その翌年辞職し、始寧(浙江省)の別荘に引きこもります。

そこには、祖父謝玄以来の広大な荘園と邸宅があり、謝霊運は、そこを住居として隠棲生活を送るようになります。

「石壁精舎(せきへきしょうじゃ)」は、始寧の仏寺の名です。
巫湖という湖に臨む山谷にあり、湖を挟んで、謝霊運の住居の反対側に位置します。

石壁精舎は、仏教徒であった謝霊運が、仏道の思索にふけった場所です。
旧時、中国では役人や文人が寺に部屋を借りて、休養したり読書したりすることがよくありました。

詩題は、「石壁精舎より湖中に還りて作る」と読みます。
石壁精舎で一晩を過ごした後、巫湖を渡って別荘に帰る時の作、という意味です。

昏旦變氣候 昏旦(こんたん) 気候(きこう)変(へん)じ
山水含淸暉 山水(さんすい) 清暉(せいき)を含(ふく)む

――昨晩と今朝とでは、すっかり辺りの気配が変わり、
山や湖は清らかな澄んだ光を帯びている。
 
石壁精舎で一泊して夜が明けると、昨晩とはまったく違う光景が眼前に現れた様子を歌っています。

淸暉能娯人 清暉(せいき) 能(よ)く人(ひと)を娯(たの)しませ
遊子憺忘歸 遊子(ゆうし) 憺(たん)として帰(かえ)るを忘(わす)る

――清らかな澄んだ光は人を楽しませ、
旅人(=作者謝霊運)は心安らいで、帰るのを忘れてしまう。

出谷日尚早 谷(たに)を出(い)でしとき 日(ひ)は尚(な)お早(はや)かりしも
入舟陽已微 
舟(ふね)に入(い)るとき 陽(ひ)は已(すで)に微(かす)かなり

――谷を出た時は、太陽もまだ昇りきらない朝の頃であったのに、
舟に乗った時は、日の光がすでに薄らいでいた。

早朝に石壁精舎のある渓谷を出て、巫湖の湖畔で舟に乗る時にはもうすでに夕暮れとなっていました。いかにも貴族らしく、ゆったりと時間を費やして過ごすさまが窺えます。

林壑斂暝色 林壑(りんがく) 暝色(めいしょく)を斂(おさ)め
雲霞收夕霏 雲霞(うんか) 夕霏(せきひ)を収(おさ)む

――山あいの渓谷は、暮色を集めて辺りがしだいに暗くなり、
夕焼け雲は、しだいに夕映えの広がりが小さくなる。

この2句は対句の傑作としてよく知られています。
上句は、初めは小さかった暗闇の面積がしだいに大きくなり、やがて周囲がすっぽり闇に包まれることを表しています。
下句は、初めは空一面に広がっていた夕映えの面積がしだいに小さくなり、やがて闇の中に消えることを表しています。
つまり、「暗部の増大」と「明部の減少」というように、明暗両面から光の変化をとらえた絶妙な対句表現になっています。

芰荷迭映蔚 芰荷(きか) 迭(たが)いに映蔚(えいうつ)し
蒲稗相因依 蒲稗(ほはい) 相(あい)因依(いんい)す

――ヒシとハスは、互いに照り映え合って青々と茂り、
ガマとヒエは、互いに寄り添うようにして生えている。

ヒシとハスは湖面に浮かぶ植物、ガマとヒエは湖畔に生える植物です。
一方は上から、一方は横からの視点で捉えていて、これもまた、さり気なく細工を施した対句になっています。

披拂趨南逕 披払(ひふつ)して南逕(なんけい)に趨(はし)り
愉悦偃東扉 愉悦(ゆえつ)して東扉(とうひ)に偃(ふ)す

――茂みをかき分けて、南の小道を足早に進み、
(家に帰り着くと)安らぎの喜びに浸りながら東の部屋に横になる。

ここは、舟を下りた後の情景です。家路を急ぎ、別荘に帰り着いて安堵する心持ちがよく表れています。

慮澹物自輕 慮(おも)い澹(しず)かにして 物(もの)自(おのずか)ら軽(かる)く
意愜理無違 意(い)愜(かな)いて 理(り)違(たが)うこと無(な)し

――心持ちが静かならば、世俗のことは自ずと軽くなっていく。
心が満ち足りていれば、自然の理に違うことがなくなる。

「物自輕」は、『荀子』「修身」篇に、「内に省みれば外物軽し」(心身を修養すれば、世俗のことは軽くなり、気にならなくなる)とあるのを踏まえています。
「理無違」は、自然の理(宇宙万物を成り立たせている摂理・法則)に背かないこと、すなわち、自己の精神が自然の理と一体化することを言います。

寄言攝生客 言(げん)を寄(よ)す 摂生(せっせい)の客(かく)に
試用此道推 試(こころ)みに此(こ)の道(みち)を用(もっ)て推(お)せ

――ひと言申し上げよう、養生の道に努めている御方たちに。
試みにわたしのこの考え方を押し進めてみてはいかがかな。

「攝生客」は、長生きの道に努めている人。ここでは、不老長生の養生法を行う道教徒を指します。
東晋以降、神仙説が流行し、葛洪の『抱朴子』のように、仙人になるための心得や仙薬(金丹)の製造方法を説いた指南書の類が著されました。
謝霊運は敬虔な仏教徒です。「攝生客」という言い方は、呼吸術や房中術に励んだり、仙薬を錬って長生きしようと齷齪している道教徒を揶揄する語気を含んでいます。

要するに、静かで満ち足りた心を保つことが最も理に適った生き方であり、結果的に長寿にも繋がる、皆も是非そういう心構えでいたまえ、というわけです。ややお説教っぽい口調であることは否めません。

このように、謝霊運は、自然美を写実的に描写するのみにとどまらず、詩の末尾に、仏教や老荘の哲理に関わる観念的・抽象的な議論を付け加えることがしばしばあります。

これには好き嫌いがあって、こうした議論が加わっているからこそ、作品に思索性があって価値があるとする見方がある一方、余計な議論がくっついていて玉に瑕だとする見方もあります。

それはさておき、この詩は、貴族ならではの華麗で洗練された修辞で丹念に自然を描写した秀逸な五言詩です。

とりわけ自然界の光に着目し、きらびやかな言葉を並べ、早朝から夕暮れにかけての時間の推移に沿って、山水の美を一つ一つ丁寧に表現しています。

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