「三国志」の物語は、正史『三国志』に始まり、盛り場の講釈で語られ、文人の詩に詠まれ、やがて舞台で演じられ、小説にも描かれてきました。
そうした数々の作品の中で、ひときわ燦然と輝くのが、北宋の詩人蘇軾(そしょく)が詠じた「赤壁の賦」です。中国古典文学史上の金字塔と呼ぶにふさわしい珠玉の名篇です。
蘇軾(1036~1101)、字は子瞻(しせん)、号は東坡居士(とうばこじ)。宋代随一の詩人とされています。
昔、中国の詩人は、ほとんどの場合、職業としては役人でした。蘇軾も、科挙に及第して中央の役人となりました。
政界では旧法党に属し、王安石の新法に反対したため中央を逐われ、杭州(浙江省)、密州(山東省)、徐州(江蘇省)など、地方の知事を歴任しました。後半生は、南の果ての恵州(広東省)や海南島に流謫の身となっています。
巨視的、楽観的な人生哲学の持ち主で、逆境に身を置きながらも、悠々と達観した人生を送りました。
蘇軾の詩は、宋代の文人らしく理知的でありながら、豪壮で軽妙な、独特の風格を持っています。宋代に盛行した詞(ツー)のジャンルでも、豪放派の第一人者とされています。
蘇軾は、多芸多才な文人でした。学者であり、詩人であり、文章家であり、詞の詠み手であり、さらに書画にも優れていました。
さて、「赤壁の賦」は、黄州(湖北省)に居を構えていた時期の作です。当時、蘇軾は、政争で罪を得て、黄州に流謫の身となっていました。
蘇軾が訪れた赤壁は、黄州城外の「赤鼻磯」と呼ばれる場所であって、実際の古戦場(湖北省蒲圻市、現在は赤壁市と改称)とは異なります。
「賦」とは、特定の事物をさまざまな角度から羅列的に描写する文学作品です。漢代の宮廷で特に盛行し、司馬相如、揚雄らの大家がいます。
元来は、華麗な文辞を羅列したペダンチックで貴族趣味的な文学でした。
ところが、宋代に至ると、古文復興の文学主張の影響で、字句や形式に拘泥することなく、自由に情を述べ、哲理を説く散文的な賦が作られるようになりました。これを「文賦」と呼びます。蘇軾の「赤壁の賦」は、その代表的な作品です。
少々長くなりますが、数段に分けて、全文を読みたいと思います。
記事の末尾【付録1】に、原文を載せていますので、ご参照ください。
「壬戌」は、みずのえいぬの年。元豊五年(1082)です。「既望」は、「望」(陰暦の十五日)の翌日。この日、蘇軾は月明かりに乗じて友人たちと共に舟遊びをしました。「赤壁」は、前述の通り、黄州の赤鼻磯であり、実際の古戦場ではありません。
「明月之詩」は、『詩経』陳風の「月出」という詩を指します。
「窈窕之章」は、「月出」の第一章に、「月(つき)出(い)でて皎(こう)たり、佼人(こうじん)僚(りょう)たり。舒(おもむ)ろに窈糾(ようきゅう)たり、労心(ろうしん)悄(しょう)たり」(月が出て光鮮やかに、美しき人はうるわしい。しずしずとしなやかに、かなわぬ思いに憂うるばかり)とあるのを指します。
「斗牛」は、二十八宿(黄道沿いに定めた二十八の星座)の斗宿と牛宿のこと。二十八宿を地上の各地に当てはめる、いわゆる「分野説」によれば、斗宿・牛宿は、春秋時代の呉・越の地に当たります。
つまり、「斗牛」は三国時代では呉が領有していた地を示すもので、作者はそれを意識してこの語を用いたのであろうとされています。
「羽化登仙」は、道教の信仰において、仙人となって虚空を飛翔し、天上の仙界に昇ることをいいます。
興に乗じて歌った歌の原文は、「桂棹兮蘭槳、撃空明兮泝流光。渺渺兮予懐、望美人兮天一方」とあります。これは、『楚辞』の形式で歌ったものです。「美人」は、月を指します。
「洞簫」は、管楽器で、尺八に似た縦笛。「蛟」は、みずち。想像上の動物で、龍の一種です。
友人が引用した「月明星稀、烏鵲南飛」の二句は、曹操の「短歌行」の中に見える詩句です。
華北を制圧した曹操は、荊州の劉表を討つため南下しますが、その直前に劉表が病死すると、息子の劉琮は、戦わずして降伏してしまいます。
荊州に身を寄せていた劉備が南へ逃れると、曹操はこれを追撃して江陵を占拠し、水軍を編成して長江を東に下り、赤壁で周瑜の軍と対峙することになります。
『三国志演義』では、会戦を間近にして、曹操は船上で酒宴を催し、諸将に拍子を取らせながら、意気揚々と「短歌行」を歌ったとあります。
「一世の雄」と謳われたその曹操でさえ、時の流れに洗い流され、今やもうこの世にいない。ましてや名もない我々の存在は「滄海の一粟」の如く、なんとはかないことか、と人生無常をしみじみと語ります。
友人に答えて蘇軾が説いた水と月の道理には、それぞれ基づく古典があります。
水の方は、『論語』の「子罕」篇に、「子、川の上に在りて曰く、『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』と」(孔子が川のほとりで言った、「過ぎ行くものは、みなこの川の流れのようなものだろうか。昼も夜も止むことがない」)とあるのを踏まえています。
一方、月の方は、『易経』の「豊」の卦に、「日は中すれば則ち昃く。月は盈つれば則ち食く。天地の盈虚は、時と与に消息す」(太陽は中天に輝けば、やがては傾く。月は満月になれば、やがては欠ける。天地の満ち欠けは、時の流れに従って消衰したり増長したりする)とあるのに拠ります。
また、『荘子』の「知北遊」篇には、「彼の盈虚を為すは盈虚するに非ず」(物が満ちたり欠けたりするのは、真に満ち欠けしているわけではない)とあり、現象面における変化は相対的なものであって、その物自体の本質的な変化ではない、という形而上学的な「万物斉同」の議論が展開されています。
「無尽蔵」は、元来は仏教用語で、仏徳が広大無辺であることをいい、転じて、いくら取り出しても尽きることのない蓄えのことをいいます。清風と明月は無尽蔵であり、万人が自由に存分に楽しめばよい、という発想です。
こうした発想は古くからあり、例えば、李白の「襄陽歌」に、「清風朗月、一銭の買うを用いず」(清らかな風と明るい月は、一銭も出さずに楽しめる)とあります。
「赤壁の賦」は、単なる懐古の文章ではなく、そこから哲理的な議論を展開しています。蘇軾独特の超越的世界観、楽観的人生哲学を披露した思索性に富む名文です。
「吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の無窮なるを羨む」という友人の言葉は、この世に生きる人間誰もが抱く思いでしょう。こうした人生無常に対するセンチメンタリズムは、中国文学の中にしばしば見られるごく一般的な人生観ですが、蘇軾はそれを一蹴して笑い飛ばします。風月無尽、我々は無尽蔵の自然美を享受している、何を羨むことがあろうか、と。
こうした大らかさ、懐の広さこそ、蘇軾が、古来人々に愛され続けている所以なのでしょう。
蘇軾は、我が国では、李白や杜甫らに比べて知名度は低く、中高の漢文で学ぶこともほとんどありませんが、中華文化圏では、偉大な文人、芸術家、政治家として、絶大な人気を誇っています。(【付録2】参照)
「赤壁の賦」は、哲人蘇軾の真骨頂を発揮した傑作中の傑作と言えます。
後世に残る膨大な数の詩文の中でも、中国古典文学史に燦然と輝く金字塔と称すべき天下の名文です。
【付録1】
「赤壁賦」原文
壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐來、水波不興。擧酒屬客、誦明月之詩、歌窈窕之章。
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之閒。白露橫江、水光接天。縱一葦之所如、凌萬頃之茫然。浩浩乎如馮虚御風、而不知其所止、飄飄乎如遺世獨立、羽化而登仙。
於是飲酒樂甚、扣舷而歌之。歌曰、桂棹兮蘭槳、撃空明兮泝流光。渺渺兮予懷、望美人兮天一方。客有吹洞簫者、倚歌而和之。其聲嗚嗚然、如怨如慕、如泣如訴。餘音嫋嫋、不絶如縷。舞幽壑之潛蛟、泣孤舟之嫠婦。
蘇子愀然、正襟危坐、而問客曰、何爲其然也。 客曰、月明星稀、烏鵲南飛、此非曹孟德之詩乎。西望夏口、東望武昌、山川相繆、鬱乎蒼蒼。此非孟德之困於周郎者乎。方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。釃酒臨江、橫槊賦詩。固一世之雄也、而今安在哉。況吾與子、漁樵於江渚之上、侶魚蝦而友麋鹿、駕一葉之扁舟、擧匏尊以相屬、寄蜉蝣於天地、渺滄海之一粟。哀吾生之須臾、羨長江之無窮。挾飛仙以遨遊、抱明月而長終、知不可乎驟得、託遺響於悲風。
蘇子曰、客亦知夫水與月乎。逝者如斯、而未嘗往也。盈虚者如彼、而卒莫消長也。蓋將自其變者而觀之、則天地曾不能以一瞬。自其不變者而觀之、則物與我皆無盡也。而又何羨乎。且夫天地之閒、物各有主。苟非吾之所有、雖一毫而莫取。惟江上之清風、與山閒之明月、耳得之而爲聲、目遇之而成色。取之無禁、用之不竭。是造物者之無盡藏也、而吾與子之所共食。
客喜而笑、洗盞更酌。肴核既盡、杯盤狼藉。相與枕藉乎舟中、不知東方之既白。
【付録2】
「赤壁賦」中国語朗読
【付録3】
蘇軾と大衆文化
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「赤壁の賦」と同時期の作に「念奴嬌 赤壁懷古」という詞があります。
以下の記事で紹介しています。