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張岱『陶庵夢憶』

「玩物喪志」は、「物をもてあそびて志をうしなう」と訓読する。「珍奇な物に夢中になって志を見失ってしまうこと」を意味する成語である。

「玩物喪志」は、「癖」(へき)の概念と相通ずる。「癖」は、病的に偏った嗜好を言うが、「玩物喪志」がある特定の物に凝集的に現れれば、それは「癖」と言い換えることができる。

「玩物喪志」も「癖」も、元来は貶義の言葉であり、伝統的士大夫の道徳観では戒められてきた悪習であるが、明末に至ると「雅」を求め「真」を尊ぶ人間論の一環として「玩物喪志」や「癖」の言動・心態を称揚する風潮が生まれた。

そうした風潮を一身に体現した人物が張岱(1597~1684)である。

「自爲墓誌銘」(『瑯嬛文集』巻四)の記すところでは、張岱は頗る多趣味の人であった。

わかきより紈絝がんこの子弟為りて、極めて繁華を愛す。精舍を好み、美婢を好み、孌童れんどうを好み、鮮衣を好み、美食を好み、駿馬しゅんめを好み、華燈を好み、煙火を好み、梨園を好み、鼓吹を好み、古董を好み、花鳥を好み、兼ぬるに茶淫さいん橘虐きつぎゃく書蠹しょと詩魔しまを以てす。

張岱は、裕福な貴族の家に生まれた典型的な「玩物喪志」の文人であった。特定の物品や事柄に偏ることなく、家具、骨董、書画、服飾から、花鳥、駿馬、芝居、音楽、さらに女色、男色に至るまで、ありとあらゆるものを嗜好したオールマイティな趣味人であった。

趣味の範囲が広いばかりでなく、一つ一つの対象いずれにも精通していたようであり、著作に『老饕集』があることから美食家としても知られる。

こうした張岱の豪奢な日常は、明朝滅亡を境に一変し、やがて窮乏の生活を強いられるようになる。

『陶庵夢憶』は、晩年、優雅な前半生を追憶して綴った随筆集である。

その巻四に収める「祁止祥癖」の冒頭で、「癖」についてこう語っている。

人は癖無くんば、ともに交わるべからず、其の深情無きを以てなり。
人はきず無くんば、与に交わるべからず、其の真気無きを以てなり。

「癖」や「疵」のない人間とは付き合えないと語るこの発言は、個性を尊重して奇人変人をもてはやす明末の思潮を端的に表している。

同文は、続いて祁止祥に「書画癖」「蹴鞠癖」「鼓鈸癖」「鬼戯癖」「梨園癖」などさまざまな「癖」があったことを語り、その中で特に「孌童癖」を取り上げ、一人の美少年にぞっこん惚れ込んだ男の故事を語る。

壬午、南都に至り、止祥ししょう阿宝あほうを出して余に示す。余謂いて曰く、「此れ西方の迦陵鳥かりょうちょう、何れの処より来たるを得るや」と。阿宝妖冶ようやにして蕊女ずいじょの如く、而して嬌痴にして無頼なり。橄欖を食するが如く、咽に渋く味無けれども韻は回甘かいかんに在り。・・・乙酉、南都失守し、止祥奔り帰り、土賊に遇い、刀剣くびに加わり、性命傾かんとするも、阿宝を是れ宝とす。止祥妻子を去ることを脱するが如く、独り孌童崽子らんどうさいしを以て性命と為す。其の癖此の如し。

祁止祥が囲っていた美少年阿宝は、生娘のように艶めかしかった。わがままで甘えん坊で、橄欖を口に含んだような何とも言えぬ後味があったという。
祁止祥は乱賊に遭って財産をすべて失ったが、阿宝だけは手放さなかった。妻子は古草履のように捨て去り、阿宝を自分の命のように溺愛したという。

『陶庵夢憶』巻三の「湖心亭看雪」は、西湖で雪見をした際の遭遇を語っている。

崇禎五年十二月、余西湖に住まう。大雪三日、湖中人鳥の声ともに絶ゆ。是の日こう定まり、余一小舟をり、毳衣ぜいい炉火をようし、独り湖心亭に往きて雪をる。・・・亭上に到るに、両人有りてせんきて対座し、一童子酒をあたため、正にけり。余を見て大いに驚喜して曰く、湖中いずくんぞ更に此くのごとき人有るを得んや、と。余をきてともに飲む。余いて三大白を飲みて別る。其の姓氏を問えば、是れ金陵の人にて此に客す。船を下るに及び、舟子喃喃なんなんとして曰く、かれ相公は痴なりと、更に相公り痴なる者有り、と。

真冬の寒い夜にわざわざ湖に舟を浮かべて雪を見に行くなど、常人のなさぬことをあえてするのが「痴人」の「痴」たる所以である。

張岱が湖心亭に着くと、そこにはすでに雪見酒に興じている人たちがいた。船頭曰く、旦那より「痴」の御方もいるんでございますな、と。

ここで言う「痴」は、「おろか」という意味ではない。雪見の行為も愚行ではなく、文学的情趣を伴った風雅な行為なのである。

「玩物喪志」も「癖」や「痴」も、一つの世界に「のめり込む」という心態である。進取の気を失い中庸を欠いた一種の病態という意味で、伝統的には否定的に扱われることは、明末の時代においても変わりがない。

そうした中で、明末の一部の知識人たち、とりわけ江南の有閑貴族たちは、これらの概念をあえて肯定的に捉え、諸々の物や事に審美的価値を見出し、その世界に耽溺し陶酔したのである。

「玩物喪志」をマイナスと見なすかプラスと認めるかは、己を「士大夫」として意識するか「文人」として意識するかによって分かれるところである。そうした意味では、張岱は極めて典型的な「文人」であった。

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