『楚辞』「漁父」~莞爾として笑い、枻を鼓して去る
中国の戦国時代後期、西暦では紀元前4世紀から3世紀頃、南方の楚の国に『楚辞』という韻文の文学が誕生しました。
当時、長江流域では、黄河流域とは異なる独自の文化が発展していました。
南方の温暖な気候、豊かな自然、シャーマニズムの盛行などの要素が相俟って、『楚辞』は、北方で生まれた『詩経』とは対照的に、多彩で、浪漫的、神秘的な特長を持ちます。
『楚辞』を代表する詩人が、愛国詩人・憂国詩人と呼ばれる屈原です。
政界で不遇であった屈原が、自らの境遇を嘆き、理想の君主を求めて天地遊行するさまを幻想的に描いた長編叙事詩「離騒」が、不朽の名作として世に伝わっています。
『楚辞』と屈原について、詳しくはこちらの記事をご参照ください。↓↓↓
『楚辞』の諸作品は、後漢・王逸の『楚辞章句』に収められています。
今回読む「漁父」は、この書の中では屈原の作として収められていますが、現在では、「漁父」は屈原の作ではなく、後人の手によるものという見方が定説になっています。
それでも、「漁父」は、難解な『楚辞』の中では比較的読みやすく、また、内容も思索性があって面白いので、しばしば高等学校の漢文教材として採録されています。
では、「漁父」を読んでみましょう。
タイトルの「漁父」は、「ぎょほ」と読み慣わしています。
「父(ほ)」は、「甫」と同じで、老年男子のこと、つまり老翁です。
この作品は、政争に敗れ、国から放逐されて川のほとりをさまよう屈原と、そこで出会ったある一人の漁師との対話です。
――屈原は、放逐されて、川の淵をさまよい、
詩を吟じながら、沢のほとりを歩いていた。
顔色はやつれ果て、その姿は痩せ衰えていた。
一人の漁師がその姿を見て尋ねた。
「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。
なにゆえこのように落ちぶれてしまわれたのですか。」
屈原は言った。
「世の者がみな濁っている中で、わたし独りが清く澄んでいる。
人々がみな酔っている中で、わたし独りが醒めている。
それゆえ放逐されたのだ。」
――漁師は言った。
「聖人というものは、物事に拘らず、
世と共に移り変わることができるのです。
世の人がみな濁っているのならば、
なぜご自分も一緒にその泥をかき回して、
濁った波を立てようとなされませぬ。
人々がみな酔っているのならば、
なぜご自分もその酒かすを喰らい、
汁をすすろうとなされませぬ。
なにゆえ深刻に思い悩み、高潔に振舞って、
放逐を招くようなことをなさったのですか。」
――屈原は言った。
「わたしはこういう言葉を聞いております。
『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の埃を払ってからかぶり、
湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着る』と。
どうしてこの清らかな身に、汚らわしき物を受けることができようか。
いっそこの湘江の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、
どうして真っ白な我が身を世俗の塵埃にまみれさせることができようか。」
――漁師はにっこりと笑い、
櫂(かい)が船端を叩く音を立てて漕ぎ去った。
去り際に、こう歌った。
「滄浪(漢水下流)の水が澄んでいるなら、冠の紐を洗うがよい。
滄浪の水が濁っているなら、自分の足を洗うがよい。」
漁師は、そのまま姿を消して、再び屈原と語り合うことはなかった。
「漁父」は、屈原の作ではなく、後人が屈原のことを歌ったものとされていますが、いつ頃の誰によるものかは、わかっていません。
また、ここに描かれている人物が、どれほど屈原の実像を伝えているのかもわかりません。
しかしながら、「漁父」は、『楚辞』の中では比較的よく知られている作品であり、屈原の高潔なイメージを人々の脳裏に定着させるのに一役買っています。
作中の屈原と漁師は、人生観、処世観が丸っきり正反対です。
屈原は、真っ向から世の中と対峙して道理を押し通そうとする、頑固で清廉潔白な生き方をしています。
それに対して、漁師は、世の流れに逆らわず、世俗とうまく順応してやっていけばよいではないか、という柔軟で拘りのない考え方をしています。
漁師が去り際に、
と歌っていますが、これは、要するに、「治まっている世なら装束を正して出仕し、乱れた世ならさっさと官を辞して隠遁するがよい」つまり、「時世によって臨機応変な生き方をするのがよろしい」と語っているわけです。
漁師は屈原を諭そうとしますが、それ以上無理強いすることなく、穏やかな笑みを浮かべて去って行きます。
「漁父」の作者自身の人生観、処世観は、漁師の側に立つものです。
この作品は、一本気で妥協をしない高潔な屈原の生き方を讃えるのではなく、むしろそうした頑固で融通の利かない性分だからこそ身を滅ぼしたのだ、と屈原の生き方を批判しています。
作品の成立年代がいつであるかにもよるので、思想的背景について断定的なことは言えませんが、漁師の生き方は、あるがままに自然に任せて無理をしないという道家的な生き方であり、作者は、おそらく道家系の思想を持った人物であろうと思われます。
また、漁師であるという設定は、この人物が俗世を離れ、世の中を達観した隠者であることを示唆しています。
こうした観点からさらに言えば、作品の中で、屈原は、儒家的な志向を持つ人物として描かれています。
むろん、歴史上の屈原は儒家ではありませんが、漁師との対話では、儒家の価値観に沿った発言をしています。
道家は徹底したアンチ儒家ですから、その視点からすれば、漁師の方が明らかに上に描かれ、屈原は「道理を悟らぬ困った御方」として道化者のような印象さえ与えています。
ですから、そういう意味でも、「漁父」が屈原本人の作であるはずがありません。
ところが、にもかかわらず、「漁父」は久しく屈原の作とされてきました。
もともと『楚辞』の最も古い注釈書である後漢・王逸の『楚辞章句』が「漁父」を屈原の作としたことから始まるのですが、近代に至るまで、この説が継承されてきました。
そして、伝統的な解釈では、「漁父」は、清廉潔白で、愛国・憂国の詩人としての屈原を讃える作品とみなされてきました。
そうなると、漁師の方が上に描かれていたのでは都合が悪く、苦し紛れに、最終句「復た与(とも)に言わず」の主語は屈原である、という説まで出てきました。
つまり、屈原は漁師に散々言われたけれども、妥協せず、相手にせず、再び漁師と語ることはなかった、と解釈するわけです。
作品の内容からも文脈からも、そう解釈するのは無理なので、これは明らかな曲解です。
「中国古典インターネット講義」の『詩経』の回でも言及しましたが、思想的、政治的、あるいは教訓的な目的から、文学作品に対して意図的な曲解、牽強附会をしがちなのは、中国文化の伝統であるのかもしれません。
↓↓↓「漁父」朗誦(中国語)