孔子の一番弟子顔回の話
孔子の弟子は 3,000人いたと言われている。
もちろんウソである。
3,000 という数字は、孟嘗君の「食客三千人」然り、李白の「白髪三千丈」然り、「たくさん」を大袈裟に言う慣用的な数字だ。
そのたくさんの中でも優れた弟子が 72人 いたと言われている。
これもあやしい。
72 という数字は、季節の「七十二候」とか、悟空の「七十二変化」とか、 暦や陰陽五行に関わる数字だ。
そのあやしい 72 人の中でも卓越した弟子10人が「孔門十哲」と呼ばれる。
これは本当の数字かもしれない。
「十哲」は、「四科」(4つの得意分野)に分けて呼ばれている。
「十哲」の中でも孔子の一番弟子だったのが、顔回だ。
顔回は、姓が顔、名は回、字を子淵、魯の出身。
ある時、「十哲」の一人である子貢が、
と言うと、それを聞いた孔子が、
と言ったという。
さらに、こんなエピソードも。
「わしもかなわん」とか「わしが啓発される」とかお師匠に言わしめた顔回とは、いったい何者か。
顔回の暮らしぶりについて、孔子はこう語っている。
顔回は、貧しい生活に甘んじ、ひたすら師の教えを実践した。
と、いかにも孔子が気に入りそうな優等生だ。
孔子は、こうも語っている。
一番弟子とあって、どれもこれも、褒め称える話ばかりだ。
顔回の前では、ほかの弟子たちは軽んじられて立つ瀬がない。
顔回は、孔子より30歳年下である。
孔子の後継者と見なされていた顔回であったが、師の孔子より先に亡くなってしまった。
顔回の死を知った時、孔子は、
と叫び、身を震わせて悲しんだ。
孔子は、亡くなった顔回を追憶して、
と、努力家の早逝を悼んでいる。
魯の哀公が、門人の中で誰が一番学問好きかと問うと、孔子はこう答えた。
死後も相変わらず顔回を褒めちぎっている。
ほかの弟子たちは相変わらず立つ瀬がない。
後世の文献でも、顔回の事跡を語る話は多い。
ほとんどが『論語』のエピソードを踏襲して褒め称えるものだが、あやしいものもある。
『荘子』「大宗師」篇では、顔回が坐忘を会得し、仁義を忘れ礼楽を忘れて道家の極意を悟ると、孔子が賛嘆して「わしも悟りたい」と言った云々という話がある。
これは大ウソだ。
儒家をコケにしたい道家のプロパガンダである。
宋代に至り、朱熹は、顔回・曾子・子思・孟子を「四聖」と呼んだ。
山東省曲阜(孔子生誕の地)には、顔回を祀る顔廟がある。