『ルックバック』お話に書く、2つのこと
破り捨てた4コマが京本の部屋に入ってからのパラレルワールドな展開、そこから現在の藤野に届く4コマ、そして藤野はまた描き始める。
漫画を読んだ時は、何だかすごいものを見たと心にダイレクトにぶっ刺さる確かな感触はありながらも、この意味、想いは掴みきれずにいた。
アマプラで公開されたアニメ版を観ていたら、以前観に行った演劇の台詞をふと思い出し、それが補助線となり一気に分かった気がした。
坂元裕二脚本『またここか』だ。異母兄弟が父の死をきっかけに出会うお話。終盤、小説家の兄は、弟から”やっちゃいけない事をやりたくなってしまう”反社会的傾向を打ち明けられ、自分の衝動に困惑する弟にこんな提案をする。
"もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。"
そうか、『ルックバック』はこれか!と。(『チェンソーマン』には"やっちゃいけないこと"が詰まってるな)
―私と漫画を描いてなくても京本は美大に行っただろう、私は漫画をやめて姉の勧めるまま空手の方へ行ったかな、そしたら、もしかしたらその時、その男を―
大きな悔いから始まるifの空想が、"京本の命を救うスーパーヒーロー藤野"の4コマギャグ漫画として、ifの起点、ふたりの人生の分岐点となった場所にアウトプットされる。タイトルは『背中を見て』。
超常現象でも何でもなく、作風からしても現在の藤野がその場で描いたものだろう。空想の京本の手を借りて。このドアの前に立ったあの日と同じように、気が付くと手を動かしていたと。私はそう読んだ。
このシークエンスは、ドロドロとした想いを芸術へと昇華し、自らの手で呪いを解く、あるいは呪鎮する、その過程を描いていると思った。『ルックバック』は"お話を作るということ"についてのお話でもあるなと。
"ありえたかもしれない世界"のビジュアルな想像というのは、ただそれだけで、不思議と受け手であるこちら側が抱えている後悔ややりきれなさにもポジティブに作用する。劇中人物にとっても絵空事でしかなく、本当にやり直せた訳ではないのに。
単に「そうなってたら良かったね、切ないね」だけでは終わらない、"解放"みたいな何かをもたらし、ドロドロな滞留物を建設的な活力へ変換してくれる。これは一体何なんだろう。
思い返せば、初対面で藤野が描いた4コマは"やっちゃいけないこと"漫画だった。引きこもりを茶化すような内容で、京本にやっちゃいけないことだけで出来てる。京本への負の感情をギャグに変えて発散してる。そんな漫画から、当の京本は活力をもらい部屋を飛び出す…
"お話を作るということ"だけでなく"読むということ"についても考え込んでしまう作品だ。
背、バック、振り返る
主人公の後ろ姿から始まり後ろ姿に終わる本作、"ルックバック=背中を見る、振り返る" この言葉の重層的な使い方にも唸ってしまったので書き留めておく。クライマックスを振り返ってみる。
過去を振り返り、強い後悔と自己嫌悪に堕ちた藤野は、導かれるように京本の部屋に入っていく。そこに広がっていたのは自分への変わらぬ愛情だった。ドアの方へ"振り返る"と、昔自分が"背面"にサインした羽織が掛かっていた。
京本はいつもそれを着て、憧れの人のサインに"背中"を押され、最期まで、絵を、生きることを頑張り続けたんだろう。京本の背中(となっていた羽織)を見る藤野。自分のあるべき姿、今やるべき事をそこに見ているのか。京本の方が"先生"になる。
京本の生きた痕跡が、藤野の選択を、破り捨てた漫画を、ふたりの日々を肯定する。やりきれなさに満ちた振り返りが、美しい思い出を慈しむ振り返りに変わっていく。京本が集めてくれていた自分の漫画を読む(振り返る)と、主人公の姿が、さっき空想したifの世界の自分と重なった。
京本を勇気づけたサインに、漫画に、今は自分自身が背中を押され、歩き出す。
背、振り返る、背、振り返るの畳みかけが凄まじい。「背中を見る=手本とする」という意味まで読み取れる。"ルックバック"というワードだけで構成されたようなシーンだ。
ラストシーン、何かに駆り立てられるように書き始めた漫画は連載の続きか、はたまた『ルックバック』か。頭上に貼られた4コマは"護符"のようにも見える。風もないのに微かに動く。
『またここか』で、黙々と書き進める弟に兄は言う。
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