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佐久間象山遺墨展に学ぶ「学習の姿勢」!

先日長野まで日帰りで美術館遠征してきました。

一月という極寒の長野は物見客もまばらで、インバンドに沸く国内の観光地とは隔世の感がありました。

ウィンタースポーツを嗜まない方にとって、この時期の長野に旅行するのは中々発想としては浮かばないかもしれません。

しかしながら今回の展覧会は大変おすすめ!是非みなさまにも訪れていただきたいということで記事にしてみたいと思います。


佐久間象山をめぐる日帰り旅

今回のアート旅は、幕末の偉人であり教養人でもあった、佐久間象山(さくましょうざん、ぞうざんとも)を巡るまるごと一日のトリップです。

佐久間象山は長野市内の松代の出身。

松代は長野駅から見て南東にある真田氏の城下町です。

今も武家屋敷や藩校跡の残る趣深い町であり、象山(佐久間象山の名の由来となった)が間近に迫る信州らしい風景も見られます。

そんな松代に生まれ、幕末の志士たちに多大な影響を与えた、佐久間象山。

今回は彼の書画を展示するマニアックな展覧会と松代訪問を軸に、北信を堪能する旅を提案いたします。

どんな旅かというと…。

松代では真田宝物館や長國寺、海津城址を訪れ松代藩や真田家の歴史を学びます。

もちろん象山神社や墓のある蓮乗寺を訪れ象山の業績や人柄を偲ぶのもメインです(象山記念館は現在休館中とのことでした)。

そして屋代にある長野県立歴史館で開催中の「佐久間象山遺墨展」。

文人でもあった象山の書が勢揃いする唯一無二な展覧会を時間をかけて味わい尽くします。

帰りは善光寺門前や上田駅でうまいもんに舌鼓を打ったり、もしくは日帰り温泉というのもいいかもしれませんよ!

私自身が巡ったコースについては次回の記事で写真と共に取り上げさせていただきます。

象山はどういう人物か?オモテとウラを探る

今回の旅のメインとなる佐久間象山遺墨の展覧会。

そもそも、佐久間象山という人はどういう人物なのでしょうか。

一般的な象山のイメージといえば…。

・江戸に私塾を開き、吉田松陰や勝海舟らを育成した
・高杉晋作や坂本龍馬にも慕われた
・砲術を学び軍事に精通していた
・開明的で尊皇攘夷を主張した
・傲慢なところがあって豪快な性格だった
・幕末の京都の街を丸腰同然で歩いていたせいで暗殺された

といった感じでしょうか。

個人的な想像としては、とっても偉そうだけど兄貴肌でぐいぐい引っ張っていく人だったので敵も味方もたくさんいた、という感じです。

しかしながら、遺墨展で接することのできる彼の人物像はまた違ったものでした。

例えば、

・朱子学を修めたバリバリの儒学者だった
・西洋かぶれなところがあり、西洋の優位性に気づいていた
・繊細な性格で仲間思いだった
・発想が柔軟で晩年まで学習を怠らなかった
・様々な発明をしては人々のために使った

といったもの。

つまり東西の思想に通じ、それらを冷徹な眼で捉え「今」にどう活かせるか考え実践したのが象山だったのです。

遺墨展で見ることのできる、佐久間象山の工夫!

佐久間象山はその書において、どのような学習や実践を見出せるでしょうか。

彼の顔真卿に学んだ漢詩や友に当てた書簡、隷書を取り入れた先進的な書、そして彼の発明品などを通じてみていきましょう。

・象山遺墨の代表作、「桜賦」

松代の象山神社にも碑が残る「桜賦」。

『佐久間象山遺墨展』38ページより引用

人知れず散る山桜に自分を喩え勤皇の志しを述べた、彼の漢詩の代表作です。

象山はやはり憂国の志士であった唐代の顔真卿を敬い、その書を模倣した字体でもって自作の漢詩をつづりました。

しかし顔真卿一辺倒というわけではなく、「桜賦」ではむしろ王羲之の時代に近いような「小楷」でもって端正な書を展開しています。

そこでは顔真卿風の豪快な筆致は鳴りをひそめ、むしろ静けさの中に志しを込めた、高雅な書を展開しています。

水戸藩の学者・藤田東湖は象山と同じように顔真卿を好みながら、趙孟頫(ちょうもうふ)という宋の皇室出なのに裏切って元朝に仕えた書家を嫌いました。

あまりにも嫌いすぎて自分の机に彼の作品が載った法帖を乗せることすら禁じたそう。

東湖も象山と同時期に活躍して、国の形について憂いた秀逸な人でした。

しかしながら臨機応変に書体を変じたり複数のスタイルを同時に書き分けた象山と真逆なエピソードが伝わっています。

幕末の偉人も十人十色ですね。

この「桜賦」、非常に巨大な軸に小さな字が並ぶ作品なので展示品の中では地味なのです。

それでも天覧を賜ったという象山自身の名誉もあり、是非心して鑑賞したい作品です。

・一風変わった趣旨の漢詩 「望遠鏡中望月歌 天軆翕力自成圓」

象山に奇人としてのイメージを抱く方もいるかと思います。

実際彼の読んだ詩にもちょっと変わった趣向で詠まれたものがいくつかあります。

今回訪れたもう一つの美術館である真田宝物館では、象山の掛け軸が一点だけありまして、それは自身の骨董好きについて詠んだ、風変わりなもの。

遺墨展にも目を惹くような題名の漢詩がありました。それが望遠鏡で月を覗いたぞ!という詩。

『佐久間象山遺墨展』32ページより引用

佐久間象山が用いたというハンディな望遠鏡も展示されており、古渡り物、つまり中国経由で渡ってきたものだそう。

この望遠鏡で月を見てみた象山ははたしてどんな感想を抱いたのか。

書き起こし文には現代の我々には馴染みのない漢字ばかりが並び解釈ができませんでした。

それでも読み取れる「気球」「五万里」「三万年」「星有人」「有生物」といった漢字からは様々な象山の知識や想像が働きます。

きっと象山は望遠鏡に映る月の地理について思索したり、月には生き物がいるかどうかについて真剣に考えたのでしょう。

漢詩という中国のスタイルに則りながら、西洋的な知を利用して月について科学する。

東西の文化を混交させつつ、夜の空に望遠鏡で月を眺め考えに浸りそれを漢詩にする象山。

科学者的な分析の視点を持ちつつ、夜長に想像力を働かせるロマンチストとしての側面も垣間見えます。

そうした想像力も智慧をはばたかせる手助けであったというのは、ダイナミックな幕末維新期の人物らしいと私は思います。

顔真卿に倣ったオーソドックスな書体とともに堪能したいところです。


・勝海舟の名の由来になった隷書体の額 「海舟書屋」

象山という人は10代から人に請われて書を揮毫するほどの能書家であり、生涯にわたって研鑽や探究を怠りませんでした。

中でも近代の書道家や研究者に高く評価されるのが、隷書に新風を吹き込んだこと。

隷書体とは、約二千年も前の漢字であり、扁平で波打つような書体が特徴です。

今では割りに見慣れた感もあり、一方でデザインに斬新さもある隷書。

しかしながら江戸末期においてはほとんど顧みられない古代文字でした。

それを中国から法帖(書が転写された和本)を取り寄せ、自らのスタイルに取り入れた最初期の書道家が象山なのです。

彼が隷書体で書を書き出したのは四十代。尊皇の士として駆け回った前半と蟄居の日々を送った後半とありますが、いずれも書を多く残しています。

その中で見られる隷書作品は扁額や碑銘が多く、掛け軸作品はあまりありません。

やはり格調高く荘重たる字体である隷書は石や木に陰刻することで、より一層美しさが引き立つようであります。

一例として、弟子である勝海舟に授けた「海舟書屋」の扁額をあげてみましょう。

『佐久間象山遺墨展』50ページより引用

横の線が強調された、今の漢字に比べても平たい隷書体。

墨を染み渡らせるようにどっしりと筆を進めたであろうことは想像に難くありません。

「海舟」の字を体現するが如く望洋たる大海に浮かぶ孤舟が目に浮かぶような書です。

象山は多く法帖から書きたい字と同じものを見つけ出してはほぼ同形のままに書いていくスタイルを取ります。

わざわざ一字ずつ探し出して完コピする場合もありますが、面白いのは微妙にバリエーションを生じさせているところ。

たとえば「象山堂」というまた別の隷書作品の額があるのですが、その「山」の一字目。

法帖では「λ」っぽい字にデザインされているのですが、象山は敢えてそれを真似せず「人」の字にして左右対称に改変しています。

象山が一塩かけた山の字は均整の中にも微妙な動きがあり、山というよりもエッフェル塔のような人工の美をイメージさせモダンです。

象山の古典学習はある程度までは強固なほどに忠実です。

しかしながら足りぬと思ったところにはオリジナリティを付与する。

こうして仕上がる良い塩梅。その絶妙な塩加減に象山の真摯な書に対する姿勢を見ることができます。

・科学を実践して人助けに活用できると手紙で説く

最後に書簡を見ていきましょう。

書簡は漢詩と違ってひがらなを多く用いますし、無論字体もはるかに砕けています。

ですので、素に近い象山の人となりや姿勢を知ることができるでしょう。

筆まじめだった象山には支援者や弟子、松代藩士らと交わした書簡が多く現存しています。

それらからは生身の言葉で語る象山の姿が浮かび上がってきます。

例えば文久二年(1862年)に書かれた地元の有力者・斉藤友衞宛ての書簡を見てみたいと思います。

『佐久間象山遺墨展』80ページより引用

かなり長い手紙なのですが、そこには妻の病状について延々と語られています。

何やら奥さんはあまり体調が良くなさそうです。

「重篤」という文字すら見かける相当危険な状況のよう。

しかしながらそこに颯爽と登場するカタカナが。

それが「ガルハニのスコックマシネ」なるもの。

『佐久間象山遺墨展』80ページより引用

これを用いてあら不思議、妻は全開したよ!貴方にも是非いかがですか?と締めくくります。

この謎のカタカナ、正体は蘭学にも精通していた象山が洋書をもとに作った医療機器の名前でした。

スコックマシネは「衝動器」と象山自身が注釈しており、電気を体に送り込むことができたそう。

身内がピンピンに元気になったから是非使ってみてくださいと喧伝する象山。

どうも手紙の目的は新しい発明品の売り出しだったよう。

最新鋭の機器をお披露目したくて少々大袈裟な言葉を用いつつお手紙しちゃう象山は少しお茶目な感じもします。

一方で、西洋の知を知識のまま終わらせるのではなく、実践し人助けに役立てようとするところに象山の学習への飽くなき欲求を見た気がします。


佐久間象山は「調和させる」学習を重んじていた!

佐久間象山は今回紹介した漢詩を見てもお分かりのように、中国的教養をベースに身を立てたわりに旧来的な文人でした。

また書簡では彼の繊細で優しい性格も垣間見ることができます。

その点では幕末維新の偉人たちの中でも保守的で穏健な要素を見出せるでしょう。

しかし学習において象山が大事にしたのは、基礎を大事にしながらもそれに決して拘泥しないことでした。

漢詩を吟じながらもその内容は科学的発想を逞しくしたものであったように、東洋という枠組みの中で西洋思想を展開していましたね。

そして、尊皇の志しを謳う漢詩には唐の皇室のために立ち上がった顔真卿の書体がぴったりなのにも関わらず、それよりも前の書体を敢えて採用する柔軟性。

書簡では理論を実践にまで高めようとすることで、人々の利益の助けにならんとする積極的な象山の姿勢が見られました。

佐久間象山にとって、学習とは自分の主張を通すために都合の良い学説を引っ張り出すことでは決してありませんでした。

むしろ曇りなき眼でもって真理を見定めるために、常に謙虚な姿勢でコツコツと一つ一つの事象に取り組んでいたのです。

彼にとってのオリジナリティや主張というのは、自明である事実の上にほんの少し強い語気を込めただけだったのかもしれないですね。


さいごに

テーマやコンセプトをもって旅行をしてみる、これ、すごい大事です。

今回佐久間象山をめぐる日帰り旅を私もしてみたわけですが、事前学習・実地学習そして旅行後の記事編集としてみて象山をよりよく知ることができました。

一つの糸を通すことで旅の記憶が強まったり、より愛おしく感じられるようになります。

ですので展覧会+それにまつわる場所を訪問する、という旅行はかなり有意義そうです。

是非長野県立歴史館で開催中の「佐久間象山遺墨展」、ご訪問下さい。2月24日まで、やってます。


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