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とにかくマインドフルネス瞑想を2年続けみたら、日々が穏やかになってきた
2019年にキャリアへの行き詰まりきっかけに、藁をもすがる思いで始めたマインドフルネス瞑想。「スピリチュアル系だし」と、もともと半信半疑だったが、とりあえず1年続けてみたら、何だか肩の力が抜けて毎日が楽しく感じられるようなった。「この状態が続けばいい」なんて思い、気づけば2年以上ほぼ毎日続けている。
(▼1年間続けた感想はこちら)
最近の生活は穏やかそのものだ。以前は気持ちのアップダウンに振り回されたり、苦悶の渦に巻き込まれ、抜け出せないこともよくあった。何日も引きずったり、思い返してまたぶり返すようなことは最近は殆どなくなり、「これがマインドフルネス瞑想の効果なのか」と実感をしている。
毎日練習を続けて「諦めの境地」を知った
日々のマインドフルネス瞑想の練習はシンプルだ。床にブランケットを敷き、硬めのクッションを乗せて、胡坐で地に足をつけて姿勢よく座る。スマホアプリのタイマーのボタンを押して、マインドフルネス瞑想の時間の始まりだ。意識は呼吸に置く。決してコントロールせず普段通りの呼吸をただ眺める。どんな思考や感情が湧いてきても、考えていることに気付いた時点で再び意識を呼吸に戻す。「キツすぎず緩すぎず」がポイントだ。
1日1回。「今日は瞑想するの面倒だな」そう思う日も、とりあえずクッションに腰を下ろしタイマーをオン。いつも忙しなく動き続ける体を落ち着かせた20~30分の瞑想の時間は、ある意味諦めの時間だ。毎日、毎時間、毎秒、様々な感覚、思考、感情が湧き上がるが、藻掻きも足掻きも逃避もできず、座ることしかできない。この「諦めの境地」に至ると、今の状況を已む無く受け入れ、思考から意識を呼吸に戻すことを繰り返し始める。
「諦めの境地」を知ると、何の脈絡もなく思考や感情が次から次へと移り変わるのに気付き始める。趣味や仕事のアイデアが浮んだり、嫌な感情に囚われたり、気づくと寝てしまっていたり、何にも思考が浮かばいこともある。車の音や、料理の香り、心地よい風が通り過ぎたり、虫が目のまえを横切ったりして意識が呼吸から逸れたりもする。どんな考えが浮かんでも気づいた時点で、追考も判断もせず手放し、意識を呼吸に戻す。タイマーの鐘がなると今日の練習は終了だ。
これだけを毎日ひたすら繰り返す。毎日「諦めの境地」に至ることで、何かをコントロールしようとすることを諦めるようになる。代わりに、思考や感情や五感から受け取る刺激も、徐々に物事の変化として受け入れられるようになっていることに気づく。
気づいたのは「ありのまま」を受け入れる体感
そして、この2年で感覚として理解できるようになったことがある
まずは、「思考は止まない、そういうものだ」ということ。瞑想を続けても、考えなくなるわけではない。それは、瞑想歴10年や50年の先生に聞いても一緒だ。どうやら、自分の持ち味の一つである思考力がなくなる、ということは恐れなくてもいいらしい。
そして、「一つ一つの思考や感情はただ自分の頭で創り上げているだけのものだ」ということ。思考が湧いた時点で呼吸に戻すことを繰り返す。思考が途切れても、自分は何の問題もなく、ちゃんと同じ場所に座って存在している。バラ色やブルーや、好き嫌いや、良し悪しや、重さや軽さも、自分自身の脳が決めつけているに過ぎない、ということに気づく。どうやら、怒りや苦しみが増幅する前に、あるいは超ハッピーから落胆する前に、余韻に浸りすぎず、手放して「今」に戻ってきた方が、穏やかに過ごせるようだ、と。
加えて、「瞑想は思考や感情も含めて、自分の体を通して起きていることを、只そのまま受け入れる練習だ」ということ。思考を含めて現実で起きていることを、自分の体を通して「そんなことも起きてるんだな。私の体を通すとこんな風に感じるんだな」と、出来事をありのままに受け止める、クールなものだ。決して天国やお花畑に上りハッピーな気持ちに浸るためでも、海辺で沈む夕日を見つめて気持ちよくなるためのものではないようだ。瞑想の先生曰く、「それこそ思考や感情が創り上げている白昼夢だ」と。
大元の仏教では、自分自身と向き合う練習
マインドフルネス瞑想は、元は仏教で行われている瞑想修行の一つで、宗教色を排除し現代人の日常でも取り組み易いように発展した自己鍛錬法だ。呼吸に意識を置くことで、思考や感情が生み出す白昼夢の中から、自分の周りの世界の「今ここ」で起きていることをに気づいていく。
さらに、仏教の重要なテーマには「自分とは何かを知ること」があるそうだ。五感を通して感じる刺激も、そこから湧き上がる思考も事象として「そういうものだ」と受け入れる。他人と自分を比べるモノサシは存在しない。瞑想を実践して自分自身と向き合い、日常生活で自分の振る舞いに意識を払えるようになることを「自分自身と親しくなる」と言うそうだ。
なるほど。だから、マインドフルネス瞑想を続けると、ジャッジや思考や感情に囚われることなく、自分の周りや自分自身に起きている事をありのまま受け入れられるようになるのだ。日々繰り返すことで、身に染みついて自分の一部となり、日常生活にも活きてくるのだと理解できる。
日々の生活が程よくなり、充実感がある
そういえば、この1年を振り返ると主に働き方の見直しや自分のケガで、住まいも仕事も変えた。選択する上では、以前ほど世間や周囲の評判を気にしなくなったと気付く。以前は「東京の中心で働く、年収と学歴と社会的ステータスが高い自分」ということが誇らしかった。今は以前より収入はだいぶ少ないし、社会的ステータスもそれほどでもないと思う。
それでも、仕事は程よく刺激もあるし、生活に十分な収入は得られている。残業も少ないので興味を持ったことをする時間もたっぷりある。都心の住まいから湘南に引っ越し、住環境もゆとりがある。のんびりと海や森の中を散歩もできている。無理な自己啓発もやめたので、手帳もスカスカで、料理や裁縫もしている。無理に背伸びもしていない。でも、倫理観や道徳観は守られている。「キツすぎず緩すぎない」今の生活にこれまでなかった充実を感じている。
平日の仕事後に近所を散歩をした。その日は夏至だった。ふと眺めた夕暮れの空に広がる雲の合間からは、優しい赤い色が差し込み、空の青と混ざり薄紫のグラデーションが広がっていた。公園に生い茂る木々から聞こえる虫の音に耳を澄ましながら、自分の身近でもこんなに美しい世界が広がっているのかと、それだけで心が満たされた。
考え事をして歩いていては発見できない、心の余裕がもたらした一瞬の風景。私はまた今日も20分、クッションに座り瞑想をするのだ。