3年間瞑想を続けたら穏やかな日々が定着した
瞑想が3年続いた
2019年にキャリアへの行き詰まりきっかけに始めた瞑想。未だにスピリチュアル系に半信半疑だ。でも、続けていたらやはり調子が良い。
1年続けたら肩の力が抜け毎日が楽しくなり、2年続けたら毎日が穏やかに感じられるようになった。3年間で住む場所も変えたくなり、仕事も以前からやってみたかった事に色々挑戦している。4年目に突入している今は、
緩やかな波の中にいるような、何の変哲もない平凡な日々を過ごしている。超ハッピーになることもなければ、苦しみのどん底に落ちることもない。
(▼過去の感想はこちら)
湧き上がる「考え」をただ受け入れて、消えるのを待つ
瞑想のやり方はシンプルだ。坐布の上に骨盤を立てて、胡坐の姿勢で座る。目線は2メートルほど前をぼんやりと見つめ、意識を呼吸に置く。タイマーで20~30分。スタートしてから暫くはあれやこれやと考えや感情が湧き上がる。仕事のスケジュール、お気に入りの本の内容、さっきまで見ていたバレーボールの試合の興奮が蘇る時もあるし、なぜかふと中学時代の出来事を思い出すこともある。どんなことが湧き上がっても、気づいた時点で再び呼吸に意識を戻す。
自分の頭の中の世界に囚われて振り回される状態は、仏教では白昼夢の中にいる状態らしい。ふっと湧き上がる単なる「考え」に評価・判断で色を付け感情となる。また別のところから湧き上がる「考え」に対し、何度も評価・判断と感情による色付けを繰り返すことで、色は次第に濃くなり、価値観や概念となって自分に染みつく。やがて、自分で勝手に意味づけしたものに縛り付けられていく。
もともと「考え」には色も形も重さもなく実態もないはずだ。
「考え」が浮かんだ時点で呼吸を意識に戻す。たしかに、静かに観察してみると「考え」は待っていれば自然と消えていく。
「考え」は止まない。だからありのまま受け入れた
しかし、3年の実践を通し身をもって体験したが、考えが浮かぶことを止めることは、どうもできないようだ。
加えて、日によってムラもある。仕事の繁忙期と休日、天気のいい日悪い日で、考え事が浮かぶスピードや量はかなり違う。
「考えが浮かんでしまうから、自分の思考のパターンに囚われて苦しむことになるのではないか」
瞑想を始めた3年前はそう考えていた。
10年以上の経験者の瞑想の先生曰く、
「瞑想は落ち着いた状態を作るトレーニングではなくて、今の自分の状態を知るためのトレーニング。何も考えなくなることはない。考えは止まないものだということも、続けるうちにわかってくる」ものらしい。
「もはや、考えてしまうことを諦めてしまってもいいのではないか」
ある時、ふと考えることに抗うのを止めてみたら、だいぶ気楽に瞑想ができるようになった。
「今日はそういうことを感じて、考える日なんだな」と感じたまま受け取り、呼吸に意識を戻して、考えが自然に消えるのを待つ。
まるで他人ごとのように俯瞰しているのと同時に、善し悪しを考えず「そうなんだな」と事実として捉える、というのが、今の私の瞑想中の個人的な感覚だ。
「考え」が浮かぶ時点で意識を呼吸に戻し、評価・判断による色付けをするサイクルに持ち込まない。そうすることで、苦しみの原因となる価値観や概念の絡まった糸を解きほぐすことができるそうだ。
今の自分以上でも自分以外にならない。そして、ほかの誰にもなれない
ただ座ることしかできない時間は、思考や感情が湧き上がることはコントロールできないし、自分が外から受ける刺激も遮断することはできない。色付けせず、その瞬間に自分が体感しているままに受け入れる。
それ以上でもそれ以外でもない。
自然と湧き上がってくる「考え」をありのまま受け止めて、どのようにうまく付き合っていくか、だ。
「何かになろうとしたり、何かよく見せようとすることすらしなくていいのではないか」
最近は普段の生活でも思うようになった。
振り返れば、これまでは「自分に足りないもの」に意識が向きすぎていて、その不足を埋め、隠すことにエネルギーを費やしすぎていたように思う。
まぶしいキャリアの人に憧れ、活躍している友人を羨やみ、自分と比較し、もっと自分も頑張らなければ、認められなければ、と焦っていたように思う。自分を捻じ曲げてでも目標を叶えたい。だから、いつだってつま先ギリギリの背伸びをしていたし、自分の能力不足に酷くがっかりすることもあった。
しかし、瞑想中の自分と日常生活の自分はどうひっくり返っても同じ人間だし、今の自分以上、自分以外にはなれないようだ。
「今の自分がベースだからある意味仕方ない。今ここからどう対処するか考えよう」というスタンスでもいいのではないか、と少しだが考え方も変わったように思う。
「自分の不足」や「存在意義」とは何なのか考えている
最近よく考える。
「自分に足りなもの」とは何なんだろうか。
これまで、考え方の根っこにあったのは「良い大学に行き、良い会社に勤め、円満な家庭を持ち、親孝行もする」だった気がしている。「羨やましい」とも言われたい、という方に決断は強く囚われていたと思う。それができなければ存在意義がない、とすら思い込んでいた。
おそらくこれが私の潜在的な評価・判断の「モノサシ」だ。
「存在意義」を勝ち取るために、受験、部活、就職、仕事の場面で目標を掲げて、時には歯を食いしばって我慢し、達成できればまた新たな目標を立てて、を繰り返していたように思う。
達成感がもっと欲しい。その渇望は体力の限界に目を背けさせ、心にも蓋をさせた。走り続けなければ。駆り立てられ新しいことを手当たり次第やってみることに使命感すら感じていた。びっしり埋まったスケジュールを見るたびに高揚感も安心感もあった。
一方で、心の真ん中にいつも穴が空いていた。何かを達成し、穴が小さくなることもあったが、完全に埋まりきらない感覚はずっと持ち合わせていた。
そういえば、瞑想を始めたのは、体に限界を感じ、何かを成し遂げようとする人生に疲れて「本来の自分とは何なのか」ということに疑問を持ち始めたことが根本的なきっかけだったな、と思い出す。
「モノサシ」から外れてみたら、自分の程よいぺースが分かってきた
瞑想を始めたのと同じころから、試しに自分の「モノサシ」から外れてみている。まずは健康第一。加えて、やりたかった事に挑戦したり、興味が湧いたことをやってみて、自分に何が合うのか色々試している。
挑戦したからこそ分かったことも沢山あるし、「もう少し工夫できたな」という反省も少なからずある。瞑想を始めて培った落ち着きも、もう少し早く培っていれば、と考えたりもする。
ここ1年くらいで、スケジュールを埋め尽くすこともをやめた。「何かしなければ」と焦って新しいことを始めるのもやめた。
オフィスワーク以外の生活は、早寝・早起きし、地場の食材で自炊し、気候と体調と相談しながら散歩や瞑想、ヨガ、音楽を嗜みながら過ごす、マイペースで気ままな日々だ。特筆すべき成果やFacebookやInstagramで披露できるような出来事もない、割と地味な暮らしだと思う。
時間の余裕と相まって気持ちにもゆとりができた。ストレス解消が必要なくなったのでお酒もほとんど飲まなくなり、健康も取り戻した。
3年前に引っ越した湘南の広い空、森や海に囲まれ、ご機嫌で平穏に過ごす日々は性に合っている。今ではすっかり日常だ。
日常が穏やかになると「ちょっとやってみたいな、面白そう」という気持ちも自然に湧くようになってきた。観葉植物の栽培や十数年ぶりの車の運転などの新しい趣味もできた。何かを始めると色々な縁が生まれ、出会った方々が新しいことを教え導いてくれる。今は自分の知らない世界が広がることはとても楽しい。
足りないものを埋めるより、いつだって「今の自分」をベースに、何かを積み重ね、加えていくことでいいのではないか。そもそも「存在意義」自体、心身ともに健康に生きていく以上のものはないのではないか、と今は思って過ごしている。
ようやく今、「人生80年」の半分だ。残りの人生のうちに「存在意義」の解が分かる日は来るのだろうか。今の時点では、少なくとも私にとっては自分が考えていた「モノサシ」の定義ではなさそうだ。同時に「本来の自分とは何なのか」ということがどんどん気になっている。
「存在意義」や「本来の自分とは何なのか」の問いに対する解がいつか分かることを祈りつつ、次々と湧き上がる考えと向き合いながら、今日もまたクッションに座り瞑想をする。
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