第2夜 銀座とビールと新潟と 金子孝信が描いた1930年代
銀座に勤めていたことがある。こう話すと「え、まさか夜の…」という反応が結構、返ってくるのだけれど、そちらではない。
2000年をまたいだ3年間、新潟日報社東京支社に勤務した。オフィスは当時、銀座5丁目のビル内にあった(現在は内幸町)。地方紙は歴史的に銀座、新橋かいわいに東京支社を置く社が多い。関係の深い広告代理店、電通の本社が、かつて銀座にあったからだ。電通の前身は1930年代半ばまで、広告事業とニュース配信事業を行っていた。
私が勤務した時期の前半は、小渕恵三政権時代。内閣の発足当時は、新鮮さと魅力に欠ける「冷めたピザ」とやゆされた。だがやり手の野中広務官房長官が支えたこともあり、政権運営はなかなかしたたかだった記憶がある。
国会回りが早めに終わると時々、同僚と飲みに出掛けた。よく知る新潟の銘酒に1杯千円近い値段がついているのを見た時には、頭がクラクラしたものだ。銀座近辺の飲食店は、単価が高い。地方紙のサラリーマン記者でも安心して通えたのが、老舗のビアホール「銀座ライオン」グループだった。
中でも圧巻だったのは「ビヤホールライオン銀座七丁目店」。現存するビアホールの中で日本最古とされる。建設は1934(昭和9)年。ガラスモザイクの巨大壁画には、大麦を収穫する女性たちが描かれていた。
酒場の喧噪(けんそう)を背に感じながら、ほてった頭を冷たいビールで鎮める時間が好きだった。金色に輝くビールと、こくのある黒ビールを合わせる「ハーフアンドハーフ」の味はここで覚えた。肴(さかな)でよく頼んだのは、ポテトサラダやジャーマンポテトなどのジャガイモ料理。そんなに高くないし、何よりもビールに合う。それからピザは、やはり熱いのがうまい。
新潟市の本社に戻って後、1930年代の銀座を舞台に、モダンな女性たちを生き生きと描いた早世の日本画家がいたことを知った。新潟市の蒲原神社に生まれた金子孝信(かねこ・たかのぶ1915~42)。戦没画学生の作品を集めた無言館(長野県上田市)に絵が展示され、注目を集めるようになった。東京美術学校(現・東京芸術大学)に学び、将来を嘱望されたが、40年に卒業した後、間もなく応召。42年に現在の中国湖北省で戦死した。
孝信の日本画は明るく、あか抜けていて、洋画のような雰囲気が漂う。「銀座裏通り」「日劇前」などの作品があり、洋装の女性3人を描いた「季節の客」は芸大に所蔵された。銀座のビアホールは、地方出身者にとっては夢のような空間だったはずだ。孝信もビールを飲みながら友人と芸術論を戦わせ、画家としての未来に思いを巡らせたのだろうか。
生家である神社の近くには、地名を冠した地ビール「沼垂(ぬったり)ビール」を提供する小さなビアパブができた。醸造所が併設され、彼の「美人画」をラベルに用いたビールを造っている。約90年前の銀座と新潟を結ぶクラフトビールだ。さあ、飲みに行こうか。
(トップの写真は新潟市の沼垂ビアパブ店内。飲み比べセットを頼んでみた。下記では猫おかみ動画も見られます)