サイコロはペンより強し #政治妄想記
その惑星では歴史が動こうとしていた。新旧二つの大きな波が激しくぶつかり合っていた。300年続いた古い波はその内部矛盾ゆえに崩壊しつつも、銃とダイナマイトを手に最後の抵抗を試みていた。
古い波は”デモクラス”と呼ばれていた。”まぁそれでも暮らす”という意味だそうだ。発祥の地マドレーヌ国では、その昔人口の1%の貴族が99%の平民から税を巻き上げ、舞踏会と賭博と色遊びに明け暮れ、飢えた平民の怒りは国王をギロチンにかけて、権力を自らのものにしたのである。自由・平等・博愛という精神は崇高な理念として信奉され、やがて近隣の国々にも波及していった。
”デモクラス国家”は学校というシステムを構築し、教育を通じて”デモクラス”が唯一絶対の価値であることを子どもに植え付け浸透させた。人々は疑いもなく最良の政治システムであると思い込んだ。独裁者からの支配から逃れ、世界は平等で平和になると思われた。
やがてアフタヌンティ国から始まった産業革命による大量生産と大量消費の波は、”デモクラス”と結びついて”欲望至上主義”と化していく。”デモクラス国家”は、南の大陸や島々を次々と武力で制圧し、植民地として支配してしまう。1%の”デモクラス国家”が99%の”未開国家”を支配し、富を貪り、収奪するという、かつてみた構図が惑星全体に拡大したのである。”デモクラス”は貧富の格差も拡大させた。自由競争により富は一部の国家、一部の企業に集中した。欲望はさらなる欲望を生み、決してとどまることはない。頂点にいる”デモクラス国家の人々”は自らの栄華を人類の進歩と評した。
一見、平和主義に見える”デモクラス”は実は意外にも戦争と親和性が高い、、、というよりむしろ好戦的だった。景気が低迷すると国民の不満が鬱積する。すると他国を征服して富を奪おうとするドロボー主義が巻き起こる。それを止める理性は”デモクラス”には無かった。狂った為政者が戦争を起こしたと教科書に記されているが、ビール国でもおにぎり国でも大衆が時の為政者を熱狂的に支持し、戦争を推進した。バーガー国は二度の世界大戦を通じて覇権国家となった。強大な兵器産業と武力を有するその国は、他の国々に内紛が起きると、”デモクラス”を守る正義の闘いと称して軍隊を派遣し、爆弾やミサイルの雨を撒き散らした。専制国家も民主国家も欲望と恐怖が根底にある限りやることは一緒であった。 ”ペンは剣より強し”というものの、そのペンでより破壊力のある強力な剣が開発された。
バーガー国を頂点とした”デモクラス国家群”は繁栄を極めながらも、その栄華は永くは続かなかった。気づくとその惑星の陸地の多くは水没または砂漠化しかけていた。大量生産、大量消費のシステムで森林を伐採し、化石燃料を燃やし続けた結果、惑星全体の気温が上昇したのである。南極の氷が溶けて海面が上昇し、森林は枯野となったのである。
また少子高齢化という致命的な危機も”デモクラス国家”を襲っていた。”デモクラス”では多数決という決定手段を用いる。1%の貴族が99%の平民を支配していた300年前のマドレーヌ大革命では合理的と思われた決定手段であるが、逆にみると多数派が少数派を支配する絶対構造である。多数決のもとでは少数派は無力である。仮に49%と51%の比率で対立する二つの集団があったとして、代議制のもとではすべての選挙で51%の集団が勝利するので、結果的に51%の集団が100%議席を確保する。そのため”デモクラス国家”では買収とか金権政治が絶えることはない。おにぎり国では多数派は高齢者であった。「高齢者の高齢者による高齢者のための政治」。未来への投資よりも現在の享楽が優先された。その結果、一層高齢化が加速し、1%の若ものと99%の老人という人口構成となり、もはや社会の存続が困難な状況に陥った。
人類は野蛮な原始社会から進歩したはずだ。しかしなぜ絶滅の危機を迎えたのか?人間の行動原理には上位に理性、下位に本能(欲望、恐怖)がある。しかしその優先順位は逆である。”デモクラス”は少数派による支配から多数派による支配にパラダイム転換を実現したが、国民主権といっても少数派も多数派も恐怖と欲に支配されている。ボスが君臨するサル集団もボスのいない平民だけのサル集団もどちらもサル集団のままであった。
絶望的社会情勢のなかで、おにぎり国では”新しい政治”を掲げ、若ものが立ち上った。”NDD(Neo Democracy of Dice サイコロによる新民主主義)”である。恐怖と欲望に唯一対抗できる平等な決定手段はサイコロであることに聡明な若ものは気づいたのである。法のもとの平等といっても、立法過程に偏りがある以上は平等ではない。人はみなサイコロのもとにのみ平等なのである。
NDDの波は閉塞した世界に希望の光としてまたたくまに拡がった。バーガー国においてはカルタ大統領にNDD党が挑戦するという権力闘争となった。古い支配層は萌芽しつつある新しい力を叩こうとした。しかし武力闘争もギロチンもここでは意味をなさない。なぜなら彼らの敵は人ではなく、サイコロ(完全なる平等の具現者)であるからだ。銃とダイナマイトという古典的な武器に固執するカルタ支持者は、銃口をサイコロに向けた。サイコロは徹底的に破壊された。憎悪の対象であるサイコロは無惨にも真っ二つに割れ、街の至るところにサイコロの残骸がばらまかれた。カルタ大統領とNDD党の対決は果たしてどちらに軍配はあがったのであろう?
・・・内部矛盾で自己崩壊した”デモクラス”はもはや多数派ではなかった。彼らの多くは加齢による認知症のため”恐怖と欲望”を感じなくなっており、投票には関心を持たなくなっていた。
こうして政権は交代した。
というか”デモクラス信者”は自然消滅した。
それはおにぎり国、マドレーヌ国などの他諸国も同様の流れだった。
やがて、その惑星に住む人々と生き物すべてがサイコロのもと平等となり、戦いはなくなり、世界は平和になりました。
温暖化が沈静化し、北極には氷山が戻り、シロクマ親子は笑顔になりました。
おしまい