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会社なりゆき放浪記③ シンクタンクで踏まれ沈む 銀行文化の洗礼

手記概要

高校時代のヤスオには確固たる将来像はなく、とりあえず入れる大学に進学、4年を経てもなお明確な職業観を持てなかった。大手企業にひとしきり落ちたあとに、ブランド名だけで有名企業の子会社に入社。そこで平穏に安定したサラリーマン生活が始まり続いていくと漠然と予想していた。
しかし親会社への出向を機に、ヤスオの人生は予期せぬ方向に動き始める。    
IT企業入社⇒建設業界⇒シンクタンク系IT⇒金融機関へ出向
業界、企業ごとに全く異なる価値観、風土、世界があった・・・成功、挫折、降格、左遷そして恋愛の日々・・・50代で組織を離れフリーターの道を歩む。昭和から令和までの時代変遷と業界事情を描きます。 


<目次>
第1幕 これって産業スパイ? IT業界の覇権争い
第2幕 ガラスの錦鯉御殿 建築業界の栄華
第3幕 シンクタンクで踏まれ沈む 銀行文化の洗礼
第4幕 リトル半沢直樹散る 金融機関の闇
第5幕 世界が集まるパウダーワールド 北海道でフリーターデビュー
第6幕 初めてのC、さよならC 50の手習い職業訓練校
第7幕 学校の光と影 ICT支援員の現実
第8幕 日雇いの悲哀 底辺の下があった
第9幕 天国はあったのか? 小さな仕事場で

第3幕 シンクタンクで踏まれ沈む 銀行文化の洗礼


 安定したD社のサラリーマン生活に飽き足らず、30代後半にして果敢にも◯◯総合研究所E社のシステム部門に転職したヤスオは、挑戦虚しく約5年間暗黒の時を過ごすことになる。
 初日、オフィスに足を踏み入れると、全く物音がなく静まり返った職場で、皆粛々と端末に向かっていた。A社でもD社でも感じたことのない緊張感がヤスオを襲った。上司からヤスオのミッションが説明された。営業と事業企画の兼務が言い渡された。海外製パッケージソフトを活用し成長しているE社IT部門であったが、別の柱を作る必要があった。自社パッケージソフトで利益を確保する方針であった。ある流通大手企業の販売分析システムをパッケージ化して、中堅流通業に導入していこうというアライアンス戦略が立ち上がったところであった。ヤスオはその事業企画と営業を任されたのである。そして彼に渡された名刺には”部長代理”という役職が印刷されていた。右も左もわからない転職したての彼に事業企画の責任と部長代理という肩書が重くのしかかった。(後で知ったが、銀行マンは中小企業の社長と渡り合う必要があり、30代になると”部長代理”の肩書が名刺に刷り込まれる慣習であり、銀行子会社のE社もそうであった。)

 結論から言うと、数千万円の投資をしたものの、当プロジェクトは全く日の目を見ず1年で幕引きとなる。理由は、大手流通企業のシステムは重すぎて中堅企業には適用できないこと、中央一括仕入から、地域性を活かした店舗ごとの品揃えへ流通業のトレンドが変化していたことであった。しかし、プロジェクトを閉めるまではヤスオには荊棘の道であった。営業マンとして売上予想ゼロと言えないので、見込みのあてがないまま営業会議で売上を約束する。そして営業会議で吊るし上げられる。営業と事業企画のそれぞれの上司から相反する指示がくだされ、身動きが取れなくなる。何とかアポイントを取り付けた企業を訪問し、何の成果もない帰り道は胸が押しつぶされそうであった。プレッシャーで休日も頭を抱えて家でうずくまっていた。

 ヤスオを苦しめたのはプロジェクトだけではない。A社、D社では人間関係に恵まれたサラリーマン生活を謳歌したものの、E社では全く人間関係が築けなかった。銀行は縦社会でトップが全体的権力を持って君臨する。下のもの、弱いものは自分の意見を言うこともできない重苦しい雰囲気があった。E社入社の初日、最も驚いたことは、夕方退社する際に、各社員が部内の課長、部長、役員の席を順に回って挨拶をしていくことである。オープンでフラットだったA社にも、おっとりとしたD社にもそんな文化も雰囲気もなかった。上席者が絶対的な地位をもっている世界であった。上下関係の厳しいE社では、途中入社で何ら実績を上げていないヤスオは立場が弱く、冷ややかに扱われていた。力関係を敏感に察知するアシスタントの女子社員にも、あからさまに上から目線でものを言われていた。

 流通業向けパッケージソフトウェア開発のプロジェクトが終わったあと、次の年には製造業向けパッケージソフトウェアの営業担当となった。製造業へDMを送付し、電話を入れ、会社を訪問する日々が続く。いきなりの電話でキーマンに取継いでいただくことは稀であったし、アポイントを採ることは至難であった。そもそも権限のあるキーマンは多忙で、初見の営業マンに会ったりはしない。会ってくれる人物は仕事のない時間を持て余す立場であった。なんとか自動車メーカー、家電メーカー等、数社において提案まで持ち込んだが、受注に至ることはなかった。

 2年間成果がでないヤスオは連日上司から執拗に責め立てられた。当初は業務上の叱責であったが、だんだんヤスオを叩くことが彼の目的に変質してきた。外出すると交通費が高いと責められ、社内で資料を作成していると営業しろと言われる。ヤスオの話し方、表情が攻撃され存在を否定された。日々30分の説教が日課とななり、ヤスオの精神状態は萎縮した。上下関係が厳しい縦社会の銀行文化のE社において役員からのプレッシャーにさらされる中間管理職は、下のものを叩いて憂さ晴らしをすることで自身の精神を保っているようであった。(この上司はその後40代後半で役員に昇格するものの、間もなく左遷された。時代が変わり、彼の行為はパワハラとして許されなくなった)
 
 不遇の2年間を過ごしたあと、ヤスオにも光明がさし始める。新規開拓の訪問のなかで、ある住宅資材メーカーの情報システム部長と懇意になったのである。水回りメーカー出身のヤスオにはその会社の状況がよく把握でき、その部長の信頼を得ることができたようだ。サーバーアウトソーシングと次期システムの基本構想コンサルティングを続けて受注した。飛び込み訪問から始まり、約1年間関係を築いた成果である。情報システムは企業の頭脳かつ神経であり、簡単には入替えはできない。情報システムの商談では、新規開拓は非常に困難であり、この受注は快挙といえた。

 基本構想コンサルティングの後には、実際のシステム構築が待ち受けていて会社規模から10億円程度の商談になると想定された。早速、社内にプロジェクト体制が作られ、同社へのヒアリングと工場見学により課題抽出を行い、次期システムの構想をまとめあげた。ヤスオは営業の立場であったが、経営コンサルティングの知識を活かして、経営課題からシステム課題を導くところを自ら作成した。

 E社入社以来、初めて前向きかつ創造的な作業に就くことができ、また過去に勉強したコンサルティングのスキルを発揮する場もでもあった。土日も含めて作業に没頭した。充実した時間を過ごし、次の商談にも希望が膨らんだが、撤退という形であっさり消滅した。E社は住宅資材メーカーのような業態への実績が無く、実際のシステム構築を請け負う力はないことが分析を進めるなかで明らかになった。しかし、プロジェクトリーダはそれを撤退理由とせずに、対象顧客の情報システム部長が信用できない、その部長に振り回されている営業のヤスオは営業失格である、と顧客とヤスオに撤退の理由を負わせた。E社では保身のために他人に泥を被せることがあるのだ。

 ヤスオが20代のとき在籍したA社とE社は、同じIT業界といっても全く業務スタイルとアプローチが異なっていた。メーカーのA社は顧客に支持されなければ成立しない。顧客志向、市場志向であり、顧客の声を代弁する営業が力を握っていた。一方、銀行子会社のE社は産業界の頂点に君臨する銀行文化が強く、顧客よりは社内を見る価値観であった。営業マンの役割は自社の論理を顧客に強いることであった。若いときに顧客志向のA社の文化で育ったヤスオには、顧客を見下ろすE社の仕事のやり方は肌が合わなかった。

 パッケージソフトウェア2件の撤退、そして当案件の撤退が続き、もはやヤスオにはE社での居場所は無くなった。さらに追い打ちを掛ける冷徹な処遇が待っていた。降格と給与ダウンである。世の中は年功序列から実力主義へ大きく切り替わろうとしていた。◯◯総合研究所の看板を掲げるE社は時代の先端を走らなければならない。E社人事部は突如として厳格な実力主義を導入した。優秀:並:駄目人材これが2:6:2の割合で正規分布するというモデルに基づき、各部門で2割の人材に低い評価をつけることが要求されたのだ。プロパー社員は優良顧客を抱え余裕で予算をクリアする一方、新規開拓が割り当てられたヤスオは予算達成はおぼつかない。中途入社で立場の弱いヤスオはまさに最低評価となり降格となった。さらに痛手であったのは、中途入社の際、前職の給与水準を維持するため調整給与という嵩上げが適用されていたのだが、ランクダウンによりそれが撤廃され、実質的に2ランク分の給与ダウンとなったことだ。評価が低いためボーナスも大幅カットとなり、年収レベルで数百万が一瞬に下がった。実力主義というと聞こえはよいが、基準によって評価はいかようにも色付けできる。新規開拓という指標ではトップでも考慮されなかった。なぜなら誰かを落とさなければならない制度だったからだ。

 その一方、親会社であるメガバンクからは”支配人”、”推進役”等の肩書の高齢社員が天下り、生産的な仕事はないまま高給を受け取るという構図があり、ピラミッド社会、格差社会を身にしみて実感した。
 これから子どもたちが高校へと進学する矢先に給与ダウンは大きなダメージだった。転職にリスクはつきもので、それを承知であえてE社に挑んだのであるが、パワハラで精神を挫かれ、収入も激減し、想定以上に苦痛を経験した。自分が力不足であるならやむを得ないが、新規開拓という難度の高い実績を評価されず、都合よく踏み台にされたという被害者意識しかもてなかった。E社にはもはやとどまる気持ちはなくなっていた。

 その時、E社の子会社のE情報サービス社にて新規事業が始まり、人材を求めているという知らせが耳に入った。銀行傘下のクレジットカード会社F社の事務運用を請け負う事業である。F社は業容拡大しており、そのために事務運用を外部委託しようとしたのである。ヤスオはそこに新天地も求めることにした。E情報サービス社への出向を志願し、受理された。

 つらい新規開拓、パワハラ、降格と減給・・・全くいいところのなかったE社であったが、得難い経験もできた。自動車メーカや家電メーカ等の日本のトップ企業との商談経験を重ねることができたことだ。商談前には深夜まで事前調査をして資料を整え、プレゼンの予行演習をおこなって臨む。その緊張感を経験できたことはサラリーマンとしての財産である。ただし全く刃が立たず自分の限界を知ることもあった。外資系メーカの商談では、相手側ボスはドイツ人、自社側はシンガポール人コンサルタント、ミーティングは英語で進んだ。営業として場を仕切るべき立場であったが、事前に練習していたにもかかわらず、挨拶も自己紹介もろくにできなかった。

 また、仕事で干されて閑職になったとき、不思議なことに突然女性運が舞い込んできた。顧客企業のシステム全国展開プロジェクトにて、システム本番立会にアサインされた。中国地方の営業所に出張したとき女子職員との甘い出会いがあった。一目見たときに何か衝撃のような感覚を持ったのだ。出張から戻ったあとその女子社員に軽く冗談メールを送付してみた。するとすぐに返信があり、少しだけチャットを楽しんだ。彼女もヤスオと出会ったとき、ビクッとする感覚をもっていたそうだ。チャットでけではなく、だんだんエスカレートして、昼休みや業務後に電話で会話するようになった。そして、彼女が本社に出張に来るというとき、「たこ焼きをご馳走するよ」というヤスオの誘いに彼女は乗ってきた。そうして、遠距離ながら関係ができてしまったのである。あるときには仕事中にチャットをしていると、「今日は嫌なことがあった、今からそっちに行く」という知らせが来た。どういうことかわからず半信半疑で新大阪駅に向かうと本当に彼女は新幹線から降りてきた。
 とりあえずホテルを取り部屋に入ると、「コートの下はOLよん・・・」と制服のままであった。思い立ったときの女子の行動力に圧倒されたヤスオであった。その後も大阪と中国地方との間をとって岡山や兵庫で会う時間を持った。仕事でプライドを失ったヤスオにとって彼を受け入れてくれる彼女は精神的な支えとなった。
 彼女とは数ヶ月関係が続いた。しかし彼女の肉体的な欲望が手に負えない存在となっていった。週刊誌やスポーツ新聞に告白体験記がいろいろ載っていて、そんなものは作り話だろうと思っていたが、身を持って体験することになった。一瞬であったが、情熱の炎が急激に激しく燃え上がり、そして燃え尽きて過ぎ去った。

第3幕 シンクタンク E社 まとめ

時代背景:アメリカ同時多発テロ事件、日韓ワールドカップ
業種:銀行系シンクタンク・コンサルティング・IT会社
職種:システム営業
仕事の特徴:
  顧客の経営課題解決力と構想力が問われる仕事。
  売り物はモノではなく頭脳。自己研鑽が欠かせない。
作業環境:
  情報収集にインターネットが使用され始める。
社風:
  旧帝大出身者が少なくない。 
  出版物の執筆者が多い。身近な人たちがフツーに本を出している。
  ◯◯総研というと組織の強みやノウハウがあると見られるが、
  実績ある領域は限られる。個人依存。
  優秀な人材は外資へ去り、駄目人材は居場所なく消えてゆく。
  銀行文化。内向きで閉鎖的な縦社会。トップは銀行から天下り。  
得たこと:
  正直者は利用され踏み台にされるという教訓
  ブランド企業に勤務したという自己満足
  閑職中の恋愛経験
失ったこと:
  ヒトとしての尊厳、人を信じるこころ、収入


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