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ぜんぶを飛びこすクルマ
「いっちゃーん!」
遠くから、以前より随分と逞しくなった声が聞こえた。スケートボードに乗っているのか体をフラフラさせながら、ゆっくりと小さな影が近づいてくる。
遠くからでもわかる、赤ちゃんの頃のようなむっちりとした姿は見る影もなく、幼児の体になっていた。夏の日差しで眩しいだけではないといったように、いつきは目を細めた。
「いっちゃん、ごめんごめん。お待たせ!久しぶりだね。本当に遊び来てよかった?」
「いっちゃん、見てー!ママが買ったー!」
似た顔の二人が一斉に話しかけてくるものだから、思わず笑うと祥子の腕に抱かれた侑斗がつられるように笑い声をあげた。
「毎日暇で祥子たちがいつ遊びに来てくれるか、楽しみにしてたよ。あっきーかっこいいヘルメットかぶってんね!ボードもいいじゃん。いっぱい乗ってる?」
「こっち来てから、じーじに買ってもらったんだよね。暁斗に毎日『練習するから見てて』って引っ張り出されるから。ねぇ、見て焼けたと思わない?」
ほっそりとした腕をこちらに出し、不満げな声とは対照に祥子は楽しくてしょうがないといった顔をしている。
「私と違って健康的な色」と自分の腕と並べて見せると祥子は「だからぁ」と相槌を打った。
暁斗は「ママにつかまらないとまだ乗れないんだよ」と目の前でまたボードに乗ってみせようとしてふらつき、当たり前のようにいつきの手を取った。ぎゅっと指を握る力は思いのほか強くなっていて、こんなところでも成長を実感する。
「暑いし早く入ろか。あっきー、私の家どこだか覚えてる?」
「あき、いっちゃんちわかるよ。あのタオルいっぱい干されてるところ」
暁斗は沢山並んだベランダの中から真っ直ぐに我が家を指さした。見える位置の高さに物干しがあるのはうちと数軒くらいで、少し恥ずかしくなる。祥子は「見た通りに何でもかんでも言うのやめてぇ」と居た堪れない顔をした。
「正解したので、皆さんをご案内しまーす」
と先導しようとすると、暁斗はボードを片腕に抱え、一方の手で自然にいつきの手をとる。小さな手から伝わる温かさにほっとするような、くすぐったいような気持ちになり、いつきはぶんぶんと暁斗の手を振ってエントラスをくぐった。
「初めての場所だと泣くかもしれないけど、5分あれば慣れるから!ほっといていいからね」
玄関を開けようとすると祥子は侑斗をこちらに向けながら、恐る恐る言った。案の定、家の中へ連れた瞬間に活きのいい魚のように身を捩り泣きじゃくる侑斗を抱え、祥子が申し訳ないという顔をしてくる。
暁斗はというと、いつきの家には何度か来ているからかさっさと靴を脱ぎ捨てリビングへと入っていく。嗜める祥子の声を背に
「ねーねー、これいっちゃんママが買っててくれたの?」
とテーブルの上に積まれたお菓子を早速見つけている。
「いっちゃんママがいっぱい食べてね、って言ってたから、手洗うぞ。祥子、今私一人だから気にしないで自由に過ごして」
なおも玄関先で大泣きしている侑斗越しに声をかけておく。
「あき、一人で洗えるけど、いっちゃん見てて」
勝手知ったる暁斗にいつきは手を引かれ、洗面所連れられた。
「これ、あきにはちょっと高いみたい」
「じゃ体持ち上げてあげるから水出せる?」
「いいよー」
脇に手を差し込み少し持ち上げると、思ったよりも重くなっていて少し足に力を入れた。
「あわあわなってから30秒洗わなくちゃいけないから、いっちゃん数えて」
「あわあわする時、おろしててもいい?」
「いいよー」
数える間素直に手を擦り合わせる暁斗に、祥子も昔から素直だったと思い出した。その真っ直ぐさはしっかりと暁斗へ受け継がれている。
暁斗の後にいつきも手を洗うと、ようやく泣き止んだ怪獣と祥子が列をなすように後ろに並んだ。
「ほらね、あんなに泣いてもこの通りなのよ」
「2人のミニ怪獣たちのお世話は大変だね」
「だからぁ」
祥子ののんびりとした相槌を聞いていると両親の方言以上に自分が今地元に帰ってきていることが実感される。いつきは大学進学と同時にこの地を離れたが、祥子はここから出ずに進学し、高校時代から付き合っていた彼を婿を迎え、この地に根ざし子どもを育んでいる。
10年という月日の間に随分と差がついたものだと、いつきは胸の奥がちりっと痛む気がした。置いていかれて拗ねる気持ちとは違うのに、まだはっきりと言葉にできない気持ちを最近は持て余すようになった。祥子のことは好き。だけど、10年の間にできてしまった違いのようなものが判然としてくるのは落ち着かない。祥子のせいでもなんでもないのに。
「いっちゃん!これどうやって遊ぶの?」
リビングから暁斗の呼ぶ声がして、いつも鷲掴みにし身動きを取れなくする思考を一旦手放した。
「いっちゃんママはね、これいっぱい広げて、あっきーが自由にお絵かきしてねって言ってたよ」
暁斗の目の前に丸まって置かれたホワイトボードになっているマグネットシートをカーペットの上で広げてやると早速ペンを走らせ始めた。
「何描けばいいかなぁ」
迷いのある線を何本も書き入れながら暁斗が見上げてくる。この年代の子どもはどんなことを知っているのだろう。何が好き?どんなことができる?生まれた時から見てきたと思っていた友人の息子のことを案外知らなかった事実に戸惑い、返答に詰まっていると、
「暁斗、電車好きじゃん。ママが座ってるところまで線路伸ばしてよ」
と祥子はいつも調子で話しかける。暁斗も描くものが決まると大きく湾曲させたり、直線でつないだりしながら祥子のもとへ線路を走らせていった。この前までペンを握るのもままならない赤ん坊だったのに、今は自分の意思で描いていく。あっという間に成長していく暁斗に、守り、育み、道を示していく母としての祥子の姿に、いつきは感動した。
「あっきー、いろんなマグネットもあるから駅も作って、電車も走らせよ」
ボードの上に駅と電車、働く車などのフレーク状になったマグネットを広げておく。暁斗が図面を引く技術者のように手元に集中し始め、口数が少なくなると、祥子が侑斗の背中を撫でながら、
「こっちほんと怪獣でやばいんだよ」としかめ面をした。
「顔もはっきりパパ似だしね。わんぱくそう。歳は離れてないのに全然違うんだね」
「だからぁ。暁斗の方が大人しいからいろんなもの奪われて逆に泣いてたりするよ」
「ミニジャイアンの誕生だね」
じっと侑斗がこちらを眺めていたと思ったら、まだ意味を持たない言葉を発しながらこちらへと突進してきた。
「それにこれよ。全然人見知りしないで向かってくから、ついてくのに必死。あ、それいいスカートじゃない?侑斗乗っちゃって平気?」
どかどかと頼りない足取りでスカートを踏みしめこちらの胸元に掴まろうする侑斗を止めようかと祥子が腰を上げようとするのを静止させる。
「全然平気だよ。物おじしないでまっすぐきてくれるの大好き」
いつきがあぐらをかいたところへ侑斗を柔らかく抱き寄せ座らせると、侑斗は満足げに体を預けてきた。じっとりと幼児特有の熱をこもった体は暁斗を膝の上に乗せあやしていた時を思い出させた。祥子は遠慮しつつも、同じことを思い出したのか懐かしそうに目を細めた。
「順調?」
怪獣2人が大人しくなると、祥子は聞きたくてうずうずしていたという調子でこちらを見てくる。
「何がよ。仕事はだんだん落ち着いてきたよ」
「違うよ。今の人」
わかってるくせにと焦ったそうに先を促そうとしてくる。
「前のやつよりかはね」
指の間を滑り落ちる滑らかな侑斗の髪を撫でながら答えた。
「もう1年経つのに?年上だったよね」
心配しているのか少し潜めた声に、「私がはっきりしないのも悪いんだよ」というと、祥子は心配そうに眉をひそめ、それ以上は聞いてこなかった。
撫でているうちに侑斗はいつきの腕の中でうとうとし始め、深く体を預けてきた。あと少しで寝そうだ。
「ママ、駅どこに作る?電車止まれないね」
「いっちゃんとママの間に作ったら?広いじゃん」
「ママ、踏切取って。それ信号機だから違うよ」
「あら、すいませんね。これ?」
「ここ置いて、あきが描いてあげるからね」
いつもこんな風に過ごしているのだろうと、2人のやりとりを温かな気持ちで眺めていた。
「ママ、ゆうくん寝ちゃったね」
大袈裟なくらい声をひそめながら、暁斗が指を差した先にはいつきに身を預けきった侑斗の姿があった。
「わ!寝てる!いっちゃんごめん。え〜、親戚にもこんな厚かましさ見せたことないのにやだぁ。めちゃくちゃ寝てる…!」
「昔から妙な安心感あるって言われてるもんでね」
「そういえば、かおりちゃん家のハムスター手に乗せたら、安心してしっかりうんちされてたもんね」
寝てる侑斗を起こさないように小さな声でけらけら笑う祥子を「息子とハムスター、一緒にするんじゃないよ」と冗談ぽくたしなめた。
顔を見合わせ笑う2人を交互に見ながら暁斗が「うんち?うんちって言った?面白いねぇ」と調子を合わせていた。
「ダメだ、侑斗思ったより寝てる。一旦置いてこようかな」
だんだんと手足を伸ばし深く寝入り始めた侑斗と時計を見比べ祥子がそわそわし始める。
「昼も近いしね。お菓子食べたし、このまま寝続けるかな?」
「夕方まで寝てくれてもいいな。暁斗の昼どうしようかな?」
「そしたらもう少しあっきーうちで遊ばせて、ちょうどいい頃に送ってこうか?」
「それめっちゃ助かる。暁斗、いっちゃんともう少し遊んでく?」
「これ完成させるからいっちゃんとまだ遊ぶ」
「じゃお昼にいっちゃんとおうち帰ってくるようにしよか」
「いいよー」
今は線路脇に動物園を描き始めた暁斗は、顔を上げずに気楽に答えている。
「じゃ、申し訳ないけど暁斗頼んだ!12時半くらいには戻してオッケーだから」
抱き上げられても全く起きない侑斗を片腕に、もう一方で荷物を抱えようとする。
「貴重品以外ならあっきーが帰る時一緒持ってくよ。息子大事に抱えていきなよ」
「優しいーありがと!じゃなんかあった時用に一応置いてくわ!」
玄関の戸を開けてやると、部屋の奥から「ママばいばーい!」と聞こえる。
「自分の家か!あいつ」
「毎年遊びに来てるとなれば、あっきーの別荘でございますよ」
「だからぁ。また夜ご飯行く時大人の話はしよね」
さっきの話詳しく聞かせなよ、と言いたげな目をして祥子は家に帰っていった。
「先生、いっちゃんもお手伝いしたいけど、いかがいたしましょうか」
「んー、道路描いたから車並べる?」
草が生い茂る動物園が今や駅のホームに溢れ出していたが、まだ描き続けるらしい。
承知しました、と画伯の言う通り大小様々な車を道路に並べていく。
一台、また一台と道路に車を繋げていくとたちまちかなり先まで続く渋滞が形成されてしまった。暁斗の描いた車線は一本。目についたオレンジの乗用車は進むことも列を抜けて折り返すこともできずに窮屈そうに見えた。前後に10台ずつほど挟まれたそれはいつきと同じだった。進展されることも今更降りることもできず立ち往生している。
今回、長く帰ることにしたのはパートナーとのことを距離をおいて考えるためだった。
最初はどこまで本気かわからない相手に、未来を分かち合おうとは思ってはいなかった。もちろん子どもを持つという選択は考えたこともなかったし、相手も同じなんだろうと話さずとも感じていた。それが少しずつ時間を重ね、向き合い、たくさんの話をしていくうち、いつきに変化をもたらし始めた。
欲が出た。信頼のおける人、共に生きることを少し本気で考え始めていた。彼となら子どもを持つこともいくらか具体的な気がしてきた。
ただパートナーの籍は具合の悪いことに埋まっていた。いつきの心が明らかになるほど、2人の間にあるものは渋滞した車のように具体的な連なりになっていく。
籍、年齢、子ども、家庭、仕事、住居、収入、うっすらと可能と不可能の線が引かれるもの、変えていこうとするほど付随して変化を求められるもの独立しているようで、複雑に絡み合い、相手と話していくほどクリアになることは話していないから山積していき、ついには身動きが取れなくなっていた。
変わることを望まなければ話は早かった。変えたい思いが出てしまえば、現状維持は本当に維持なのだろうか。後退だろうか。
パートナーはいつきの変化する心と共に歩むだろうか。何も手放さず、どれも大事にしているように見せかける「維持」は彼にとってこの上なく好都合なのではないか。大切にしているものの中にいつきはいるのか。
そんないつき自身ですら、整理して話していくのに労力がかかりそうな問いは面倒だ。あまり水は差したくない。このままならうまく行っているのだから。
「順調?」
もう一度祥子の問いが頭の中で響く。このままを望むなら順調。仲は過去の誰よりもいい。気も合う。それだけならすこぶる順調。自分の問いが膨らみ続けたら…?
「いっちゃん、全部渋滞させたの〜?」
やれやれ困った大人だと言ったように暁斗が出来上がったジャングルから目を離し、いつきを見上げてくる。
「踏切閉まってるからどんどん詰まっちゃった。あっきーどうしたらいいかな?」
暁斗はさっとスポーツカーを取り出し、反対車線をひゅっと走らせた。
「この車なんでも飛べ越せるからどこでもお助けできるよ」
「いっちゃんの車、動けないんだけどどうしよう」
「いっちゃんのどれ?オレンジのやつ?」
そう言うと赤のスポーツカーが後ろにオレンジの車を引っ掛けて、窮屈な渋滞を横目にかけていく。
踏切を上げて徐々に車が流れていくでもなく、一台も走っていない対向車線を使う。積み重なった問題を全てを飛び越す車。
「自由だねぇ〜」と感嘆すると、同じ調子で暁斗が「自由だよ〜」と続いた。
何かもわかってないで言っているであろう5歳児に車を並べて身動きが取れないと嘆く30歳。6倍も生きているくせに、なんだかみっともない気がしていつきは恥ずかしくなった。
そろそろ昼ごはんができると祥子から連絡が入った。暁斗に片づけをお願いして、いつきは持ち帰れるようにテーブルの上の菓子をまとめた。苺味のチョコだけは一つもらおうと分けて置いておいたら、
「いっちゃん、それ入れるの忘れてるよ」
と暁斗が指摘してくる。
「あらま」
とぼけたふりをしてたら、暁斗は荷物の中にそれをさっさと入れて「いっちゃん、行くよ」と下まで送れとせっついてきた。
いつきは「かなわないな」と思いながら彼の父親そっくりの太い直毛が渦になるつむじを眺めていた。
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