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平たくなってくのなら

私には苦手なことがたくさんある。
苦手なことが迫ってくると、つい感情的になる。
そんな自分のことも受け入れがたく、仲良くやっていけるイメージが持てない。苦手な子。

今回もまた怒ってしまった。毎回思う「今度こそ上手くやろう」変わってないのはどっちだろう。
私が変わってない。そう思うのと同時に、「こういう私」を理解してもらえてない、そう思ってしまうとどうしても悲しかった。
30年以上付き合ってきた私ですら理解し難い、「私」のことを理解するなんて無茶苦茶なことを言ってるのはわかってる。
誰にでもそんなことは思わない。誰かじゃない。でもそんな過度な期待はもう互いを苦しめるだけなのかもしれない。

それでも何にもなかったように、また明日が始まるのはつらい。だから、少しだけ時間をもらうことにした。

本が好き。その中でもマンガが好き。同じところをめぐる私を外に連れ出してくれるから。次々と自分から溢れ出る感情の波に飲まれそうになってるところを守るシェルターでもあるから。
作り物に逃げる。でも作り物の中でゆっくりと見えてくる私の意味がある。

部屋の中を居心地良くしようとかなりの本を手放したが、結局また買ってしまった。今回買ったのは『Artisteアルティスト』不器用で人間1年生の料理人を軸にさまざまなアーティストやそれらの人生が語られる。
今回はこの世界に篭りながら、もう一度今いるところに戻るかを考えている。

大好きなのは3巻。主人公が新しい厨房チームとどのようにコミュニケーションをとればいいのか悩んだ時に「みんなちょっとずつ僕のことが苦手で、僕もちょっとずつみんなが苦手だ…と言う場面がある。そんな彼に幼馴染は「人は誤解しあう」と声をかける。

分かりたいし分かってほしい。誰でもきっとそうだ。
理解することは、もしかしたら自分の価値観を変えていくことではないのかな?そういうふうに教えてくれた人もいた。
分かるけど、分からない。それを怖がる自分もいる。
自分が相手に理解を示していくたび、自分のことは理解されなくなっていく気がして、それがとても寂しい。「あなたなら分かってくれると思ってた。信じてる。これもいいよね。すごく助かるよ。言わなくても分かってくれてる」そうして行き着く先は「言わなくてもいいよね。あなたなら分かってくれるんだから」だと思ってしまう。
ねぇ。私は?あなたは「私」がいいのではなくて、「自分を理解してくれる相手」ならいいんじゃないの?

私には分からないことが多い。暗黙になってることだって確認したいことはある。いつもYESじゃない。
理解しようとばかりしていたことで傷ついたことがある。何も言ってこないからいいのだろうと沢山の嘘をつかれた。それを理解しないのなら、良き理解者でいなかったことをなじられたこともある。
「何もないから言ってなかった。混乱させたくなかった」
「余裕がないことを言わなくてもわかってくれると思ってた」
なぜ信じてくれないのか、信じられないならこれからの2人のことは難しいんじゃないのか、悲しそうな目でこちらを伺う顔。私だって悲しい。そう言って嘘をたくさんつく人の方が、私にとっては真実に近い。

物語の中で魚担当の子は物事の例えを、日常生活には色々な大きさ形の箱があり蓋が閉まってる。中身を開けて一つ一つ覗き込まないと自分はわからない。だけど、普通の人は開けずに様子や周りを見て中身の予想がつくのだろう。と話す。

私もそう感じることの方が多い。近ければ近いほど、慎重でなければ予想は大はずれになる。過去の経験が消えてくれない。
それに私には人よりもルールが多くて、それが収まるべきところに収まっていないと落ち着かない。
経験で作られてきた自分を矯正することは、頭でわかっていても難しい。

大学の先生に昔聞かれたことがある。
「あなたは待ち合わせに遅れる時に、最小限かかる時間で伝える人?最大限を伝える人?」と。

私は最大限を答える。待たせているからこれ以上待つ負荷を相手に思わせたくない。
もし途中で間違えてさらに遅れたり、相手をうまく見つけられないことも私の事情だから私の時間に入れておく。自分のせいでかかる時間を相手に同時にかけさせるのは居心地が悪い。
だから時間の目算が甘い人はあまり好きじゃない。
何時間も何時間も嫌だと言っても、パチンコやスロットに付き合わされて自分の時間が削られたことがあったから、それはとても嫌なんだと思う。

自分の時間だけで計算しているのは、相手が頭の中にいないのと一緒だと感じる。どんな事情にせよ、そこだけが見えている相手にとってはそれは身勝手に感じられると思ってる。そしてそんな身勝手さはどうしても苦手だ。

暗黙や空気を読むことも苦手。だから可能な限り一声が欲しい。それは承認なのか未読なのか、承服しかねるなのか。そしたらここまで頭の中はばらつかなかったのかなと思う。何もなかったかのような振る舞いは、あってもなくてもいいものと思えてしまった。それがとても寂しい。

あってもなくてもいいのなら、私はそれはなくてもいいと思う。なくてもいいものをわざわざ続ける意味はないと思う。
それは情や寂しさなどの扱いの厄介なものを引き連れてくることが多い。
空気になるくらいなら、人でいたい。
盤上で便利に動くコマではなく、私は盤上を挟み目の前に座るプレーヤーだ。それが向き合うということだと思っていた。

何度も語られる言葉と行動どちらも私は別に感じられて、だからすぐ見失ってしまう。揃っていなかったら、どちらを見ればいいかわからない。
耳触りのいい言葉を言ってくるだけの人はたくさんいた。自分に利する時だけ必死に言葉を尽くす人は、あなたが思ってる以上に多い。私は無知で愚かだったために、そういう人間関係の中にいたことがある。だからこれも私にはこの経験の方が真実に近い。残念ながら。
だからといって、誰彼指差して「あなたのことが信用できない」ということではではなくて、私のペースでそれを理解させてほしいということだと思う。

人間には多くの面がある。本を読んでいても、そこに描かれるキャラクターたちでさえ、奥行きを持って私に語りかける。嫌いだった子の心に触れたら思いがけず共感した。話してみたら全然違う。そんなことがたくさんある。
人は誤解し合うものだというなら、多くの面を見ていくことで誤解が解けていく。その先に好きがある。

その逆に多くの面を見てきたと思ったはずなのに、ひどく平たく一面しか見せてくれていないと感じることもある。取り繕う会話、この話は後にしてくれ、いつか話そう。じっくり考える。
考えた先には伝えてくれるの?
なかったことになって日が過ぎるなら、向き合うあなたは平面のままだ。それから読み取ることは私にとっては難しい。

楽しい時まで時間を待つなら、私である必要はないでしょう。こうして思い悩み、立ち止まる私も一つの私なんだから。
こういう特性が難しいと感じたら、今までのことに感謝し、積み上げてきた月日を誇り思って、幕を下ろさなくてはいけないなと思う。それが私が向き合ってきたことへの責任だろう。

投げ出したい訳ではないけれど、「私である意味」は私にとってそれほど重要な課題だから、めんどくさくても、辛くても私は伝えなくてはいけないと思う。

ややこしいね。

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くまみ
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