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「合理化」から新規能力の気づきに


合理化
 
 
言葉通りに読むと、

理(ことわり)に合う(あう、かなう)、そして化ける(ばける)
となる
 
 
ここでちょっと心理学の辞書に相談してみると、こんなのがあった。

合理化(rationalization)= 防衛機制
 
要するに、「負け惜しみ」らしい。
自分にとってイヤな葛藤を高めないための行動や考え方、とのこと。
 
 
百科事典でも同じような文言があった。
「諸個人が自己正当化という意図をもってみずからの行為の真の動機を意識的あるいはなかば無意識的に隠蔽して,社会的な承認を獲得しようとすること」
 
 
さらに、その百科事典にはマックス・ウェーバーの引用がある。特に彼が生きた近代西ヨーロッパまでの歴史について、という縛りはあるものの、人類の歴史は、徹底的合理化過程の結果であるとのこと。


そして、形式的合理化と他方での実質的合理化という2側面が相互に逆説的に重層し合う、とも。
 
 
矛盾する合理化が重層している、含まれている、ということなんだろうと僕は解釈した。 
 
 
 
矛盾するものを統合、相反、合一に関しては、エンゲルス、ヘーゲルの弁証法を想起させる。その解釈の一つで分かりやすかった田坂広志氏の著書内で述べられていた経済や文化面での合一や背反、進化過程において、僕ら現代人はどのように対応したか、あるいはしていくのか、などの項目はとても興味深かった。 
 
 
ちょっと話が逸れたが、合理化に戻ることにする。

百科事典の合理化、ウェーバーの合理化を見ていると、
「じゃあ、僕ら人類は言い訳を正当化してきただけなのか」


とも仮説はできる。ただ、現代の科学の発展や人類の進化(何をもって進化とするのかは、ここでは触れないが、、)の証明論拠としては、すごく遠い仮説だなぁ、とも感じる。しかし、この仮説と、今ここにいる僕らのとの間には、沢山の重層する個々人の物語と複雑系が絡み合っており、もしかすると現代の科学では理解できない要素や事実も沢山あるのかもしれない。

僕は、この「理解できない」けど、実際にあるもの、実際に感じるもの、が大好きだ。だから、人は希望も持てるし、時代が意識的無意識的に作った固定観念などの世界から、斜め上に行くこともできているのだと思う。
 
 
 
合理化でもう一つの引用をしてみたい。
内田樹氏の著書内にあったものだ。そこでは外国人からの質問から始まる。
「適当」とは何て意味ですか、と聞かれ、回答に窮した、と。

その「適当」の使用例文を出すと、
・適当なことを言うな。(意味:あまり正しくない、不的確な) 
・適当な答えを述べよ。(意味:的確な、正しい)
 
同じ言葉なのに、相反する意味を持っている。
その他にも、云い方、回答までの時間などで、意味は変わることがある。これをメタ・メッセージ(上位メッセージ)というらしい。
 
 
そしてなぜ人類はこんなわざわざ複雑になるようにコミュニケーションを組み立てたのか、と著者の自問自答が開始する。そこで、合理化が出てくる。 
 
内容を簡潔的に意訳すると、沢山の言葉を使い表現方法を増やすよりも、1つの言葉内で沢山の意味があったほうが「合理的」だ、とのことだった。学習の面倒くささ、人々が共有する理解の前提である識字率や言語能力学習の差を埋めるためには、時代の流れにおいて、もっとも合理的だったのかもしれない。 それは今も続いている。
 
 
 
とまあ、合理化=「言い訳」的なところから発して、言葉の合理化も身近な事を例に挙げると、物凄く沢山あることを知った、というか気づいた。僕らはあまりにも自分事に忙殺されて、そんなことにわざわざ足を止め、頭の回転をとめて、見つめ直すことをしないだけなのだ。
 
 
 
今回の題名にした、「合理化=言い訳が自分の能力開発につながるのかどうか」について、これからこれを中心に考えてみたい。僕の見立てというか、経験則的な感覚では、「言い訳」をする時は決まって、自分の「落ち度」を自覚した上で、というのがコンテクストの前提にあることが多い。
 
そこで、「自分の落ち度」の自覚を砕いていくと、出来なかったこと、ミスしたこと、などなどが体験的に思い出される。きっと誰でも経験はあるはずだ。


個人の能力開発と「自分の落ち度」の自覚を照らし合わせると、ミスをなくすための訓練をする、という方向性もあるが、「向き不向き」という軸でみると、不向きだったから「落ち度」を自覚した、と結論づけて別方向の視野に前向きにベクトルを創っっていく方向性もあっていいのではないか、と。 
 
 
ああ、これも「合理化」なのかもしれないが、思い切って「自覚した落ち度」を捨ててしまうことで、別の事柄に「気」を向ける、エネルギーを注ぐ、こともできる。

思いっきり理路を跳躍してしまうかもしれないが、合理化=人類発展の要因、と仮定した場合、僕ら一人ひとりにできることは、自分に向かないことや自己卑下に繋がる「落ち度」を感じることは、すぐに止めようよ、ってことだ。
 
 
そんなことをいうと、

「そんなすぐに諦めるな」
「使えない人だな」
「できるまでやれよ」
「現実逃避するな」

などなど、色々な声が聞こえてきそうだが。。。💦

でもちょっと待てよ。これらの「声」もTPOの詳細を細かく穿って見ていくと、発した人の「合理化」に依拠する可能性は大いにある。発した人も目的や目標に近づくのが遅れたりしたら、愚痴の一つも言いたいはず。

場面として例えば、仕事中何かのプロジェクトで、リーダーとして業務が思い通りに進まないため、社員や同僚にハッパをかける的なものとも考えられうる。

別の場面としては、親が子供に対して、知り合いの親子の話を聞きき、体裁から比較してしまい、教育の一環として良かれと思い、子供にハッパをかける場合の声だったりもする。

 
おおー、確かに「合理化」=「言い訳」→ 人類の発展 の道筋が、ちょっと開けて来たかもしれない、多分。。。

 
もうちょっと、
合理化=「言い訳」→ 能力開発につながる、
を考えてみたい。 
 
 
以上
 
 
 

【参考文献】

・死と身体(内田樹)
・プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ウェーバー)
・使える弁証法(田坂広志)
・新・幸福論(内山節)
・ブリタニカ百科事典(ブリタニカ・ジャパン)


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