転職エトセトラ:幸せについて
とある会社の最終面接で
「幸せになろう」と言われた。
そりゃ幸せにはなりたいけれど、それが目に見えなさすぎて、
「なんだこいつ、うるせーな」って思ってしまった。
僕の幸せってなんだ、僕もそんなもの分からないし、
分かるように客観視できていたら、
「幸せ」とかいう曖昧な言葉で表現しないはずなんだよな。
そもそも幸せとは無限なのだと思う。
幸せを追いかけてつかむと、また新しく手にしたいものが生まれる、心の中に渦巻く際限ない欲望がいつまでたっても人を幸せにさせない。やれやれ。
この「追いかけても追いかけても新たな幸せを求めてしまう」、そんな人の愚かしくも愛おしいものを動力としているのが、資本主義のように思える。
欲望ドリブンって感じか。
資本主義のシステムはミクロ・マクロ問わず、経済というものの競争を促していて、それは幸せという、絶対的に相対評価なものをよりどころとしている。ように感じる。
ここらへんあんまりよくわからん。経済学徒じゃなかったから。
これが嫌なら、仕事を捨て妻子を捨て、山に籠って悟りを開き、ブッダとなればよいのだ。
でもそんなあなたにもマイナンバーが与えられているんだけれど。
管理社会に警鐘を!みたいな話ではないから安心してほしい。
今の日本で20歳まで生きられる確率は90%を超えているらしい。
10数人いたら、一人は生きられないかもしれない、ということで。
僕はこれを見たときに自分の周りでそんなに亡くなっている人がいなかったから、「確率低いな」と思ったけど、
そもそも学校に通えない子もいるから、そういうのを合わせると、妥当な数字のように感じる。
今この記事を読むことのできる成人以上の方は、亡くなった方よりも確実に幸せなはずなのに、あまりに幸せそうな顔をしている人がいないように感じる。
だからいたずらで無責任な言葉に踊らされるんだろうな。
「君が無駄にした1日は、他の誰かが死ぬほど生きたかった1日だ」
みたいなきれいごとを言いたいのではない。あんなの嫌い。
生も死も傍観者から見れば平等だけど、
当事者になったときに、自分が死ぬのは平等な何かによって選ばれたのだ、と思える自信はない。神様(いる?)の気まぐれで選ばれてしまった、、と落ち込んでしまう。
死に方だってそうだ。
一人で死ぬ人もいれば、見守られて死ぬ人もいる。
衆目の中、銃殺される人もいれば、
国民の多くが望んでいないお葬式を行う人もいる。
善悪は置いといて、人の命は平等なんて全く思えない。
平等についてはジェンダ―マイノリティを踏まえて改めて書こうと思ってるからここでは触れない。
結論「みんなで幸せになろう」という言葉は無責任が過ぎる。そんあんだから内定出しても僕に断られるんだよ。
誰かの幸せは誰かの不幸せになる不平等なシステムで生きているんだから。
だから僕は、僕自身と僕が好きな人、僕を好きでいてくれる人。
彼らが幸せになってくれればいい。
このくらいのわがままを通すために努力しないと、この資本主義のルールに適応した人に負けちゃう。
このブログを見た人も自分と自分の周りの人のためだけに戦ってほしい。
ただ、周りを貶めるんじゃなくて、自分達が登っていこうね。
それだけ。
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