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悦贔屓蝦夷押領②~北海道に逃れた義経主従の黄表紙顛末記

 源義経みなもとのよしつねは、平泉ひらいずみで戦死せずに北海道に逃れたという伝説を下地に、義経一行のあれやこれやを描く、「悦贔屓蝦夷押領よろこんぶひいきのえぞおし恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)作、北尾政美きたおまさよし(1764~1824)画、天明八年1788蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう刊の上中下三巻。
 その現代語訳を三回に分けておくる二回目。

 


中巻

 義経よしつねは、奥蝦夷おくえぞインツウフツテエス・しうれん大王の城へめて行けば、大きな数の子かずのこ石垣いしがきを作り、昆布こぶ荒布あらめくきかためて敵を防ぐ用心が厳しいので、かねてよりためておいた白水しろみず壁土かべつちを混ぜ、乾燥昆布かんそうこぶをやわらかくする準備をし、水鉄砲みずでっぽうで吹きかければ、たちまちやわらかくなったので、醤油しょうゆをかけて、残らず食べつくし、攻め入りたまう。
兵士「白水は何になるかと思ったら、なるほど、親方の知恵は格別かくべつだ」
兵士「いよ、玉屋~、とほめてくれ」

 


 なんなく城をめ落とし、合戦かっせんになると、蝦夷えぞ人は厚い昆布こぶを数枚重ねてまとい、よろいとしており、切っても弓矢でても通らず、義経の軍勢こまてる。そのとき、義経は少しも騒がず、たくわえておいた焼きフナを取り出し、醤油しょうゆに酒、塩で味付けし、大鍋おおなべ煮込にこみ、ひしゃくで蝦夷えぞ人にかければ、たちまち昆布こぶは柔らかくなり、逃げる敵を、亀井、片岡、伊勢、駿河
たりや」
と、はしを持ってはさんで切り、酒飲みは酒のさかなにし、下戸げこは夜食のおかずにして、皆殺しにぞしたりける。

 


 蝦夷えぞ人、みなみな昆布巻こぶまきのようになり、はしではさみ切られて敗軍はいぐんし、残らず降参こうさんする。フツテエス・しうれん大王は女王であり、娘あり。かいらん公主・あやふや夫人ぶにんといって、容顔美麗ようがんびれいなれば、義経公も、おおいに気に入る。
大王「婿むことして蝦夷えぞあるじとおなりなさい」
と、すすめれば、本来ほんらい好き者すきものなので、吉日きちじつを選び、結婚しける。
 母親のしうれん大王も、うらやましくなり、武蔵坊むさしぼうを選び、うちうちで夫婦のちぎりりを結ぶ。弁慶は一度しか女性とちぎっていないという世間のうわさはウソなり。
 義経公にならって、亀井、片岡、伊勢、駿河も、でれでれと、それぞれ女官たちと結ばれる。

 


 奥蝦夷おくえぞ落城らくじょうするのみならず、義経大王婿むことなり、蝦夷えぞ一国を手に入れたまうこと、ひとえにダンカンの働きのゆえなりと、ダンカンに多くの領地を与え、あまつさえ、亀井、片岡、伊勢、駿河と同役に出世させ、その家来、ジショウ・ウラミンテール、同じくインオリスー・ウエンノイという両人を呼び出し、
「このたび、主人とともによく働いてくれた。これからもよくつとめよ」
と、昆布こぶまきずつ与えられる。
ダンカン「蝦夷えぞ人のわたくしを、けっこうな取り立てをしていただくだけでなく、家来けらいまでご褒美ほうびをいただき、冥加至極みょうがしごく
などと、そら覚えのおせじを言う。

 


 ダンカン義経よしつねに取り入れられたをさいわいに、蝦夷えぞ中の美人を献上けんじょうし、日夜、飲酒をすすめる。
義経「ダンカン、飲め飲め。俺は、酒と女さえあればいい。おまえの経済政策も田沼意次たぬまおきつぐみたいで、なかなかよい。そのまますすめよ」
ダンカン「日本では金銀がとれ、蝦夷えぞでは昆布こぶ数の子かずのこがあります。まず日本から昆布こぶ数の子かずのこの代わりになる荒布あらめ、ごまめを輸入し、たくわえた昆布こぶ数の子かずのこで貿易をしましょう。そのために、蝦夷えぞ中の昆布こぶ数の子かずのこを集めてよろしいでしょうか」
 常陸坊ひたちぼう海尊かいそんは、このあと仙人となるが、今でも時々日本に飛んで行き、江戸の珍しい話をするので、話坊主はなしぼうずと呼ばれ、人気者となる。

 


十一

 ダンカン義経よしつねに、美人を夜の供に差し出し、酒におぼれさせ、かいらん夫人から遠ざかるように仕向け、かねてから心をかけていた、かいらん夫人を口説くどくこそ不届ふとどきなり。
 義経公、この様子をのぞき見して、いよいよダンカンの狂言を見透みすかす。
義経「よし、三冊目の下巻で、目にもの見せてやろう。いつもの草双紙くさぞうしのように夢オチにはしないぞ」
 かいらん夫人はダンカンにいちゃつかれ、おおいに困り、「主人がいます」「主人に対して不届ふとどき」と、おどしても、ダンカンは熱くなって聞き入れず。

 


十二

 昆布こぶ数の子かずのこの引きえ定座というものを作り、義経の命令で荒布あらめ、ごまめと交換する。

 


 北海道での様子を描きながら、次回につづく、

 


 年貢米中心の江戸経済も、後半には各地の特産品をあつかう商業へと力が移っていく。
 当時は寒くて米が作れなかった蝦夷えぞ地北海道、そこを領地としていた松前藩は、特に特産品の貿易に力を入れていた。当時の高級特産品、干しあわび、いりなまこ、ふかひれは、俵物たわらものと呼ばれた。

 余談ですが、貿易路は西回りだったので、日本列島をぐるっと回り、品物は大坂に集められた。だから大坂は、昆布こぶを使った商品が多く、出汁だし文化も広がった。
 松前藩は、昔から住んでいたアイヌとの戦いも何度かあり、北からはロシアもやってくる。そういう話を伝え聞いて、ダンカンなどの蝦夷えぞ人は、ロシアとアイヌとあわせたような姿形だろうと想像して描いたのだろう。
 

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