百人一首むすめふさほせ 村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
通り雨の
露も乾かぬ
緑の木々に
霧立ちこめる
秋の夕暮れ
「百人一首」は、百人の人の短歌(歌=和歌)を、それぞれ一首ずつ選んだもの。今あなたが100人の人の短歌を1首ずつ選んだら、それが「百人一首」となる。昔は、そんな遊びがあった。藤原定家が京都の小倉山で選んだといわれる「小倉百人一首」が有名で、今はかるた遊びに使われ、「百人一首」といえば「小倉百人一首」のことをさす。
和歌(短歌)自体は、神代の昔のスサノオノミコトの歌から始まるといわれる。
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくる その八重垣を
雲が重なってわきたつ出雲の地で、私は垣根を重ねて作る妻との住まいを見つけた。
口に出して読めば、まさに「歌」だ。五七五七七のリズムに乗せて歌う。
奈良時代の「万葉集」から歌を記録し、平安時代の「古今集(古今和歌集)」へと続き、鎌倉時代の「新古今集(新古今和歌集)」まで天皇の命で作った歌集が続く。和歌を作っていたのは貴族が中心だったが、鎌倉時代から武士の時代となる。和歌の最後の輝きが「新古今集」であり、その編集の中心が藤原定家だった。
藤原定家はそれまでの数々の歌の中から百人一首を選んでいる。「小倉百人一首」には、それまでの和歌のエッセンスが込められている。百人一首を見れば、それまでの日本の和歌がわかる。
「むすめふさほせ」の「む」。
百人一首は、最初の一文字で決まる一字札がある。それが「むすめふさほせ」。「むすめふさほせ」各字で始まる札は各1枚しかない。これを覚えていれば、最初の一字、「む……」だけを聞いて札が取れる。
87 村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ 寂蓮法師
にわか雨が過ぎた後、まだその滴も乾かぬスギやヒノキの常緑樹の緑の葉の辺りに、白い霧がわきあがる秋の夕暮れよ。
「村雨」はにわか雨。秋のにわか雨のことをいう。時雨は、晩秋から冬にかけての急に降って止む雨。
「露もまだひぬ」で、雨の後の露がまだ乾かない。「ひぬ」は「干る」=「乾く」に「ぬ」=「ない」がついて、「干ぬ」。「乾かない」。
「まき」は、「真木」あるいは「槙」と書き、スギやヒノキなどの針葉樹をさす。これらは秋の紅葉の季節でも青々とした葉をつけている。
植物の名としての「マキ」は一般にはイヌマキだが、木材として貴重なコウヤマキというものもある。イヌマキは、赤と緑のダルマのような実をつけ、庭木によく使われるマキ科の植物。コウヤマキは「マキ」とはあるが、松の仲間で高木となる。高野山に多くあるのでコウヤマキと呼ばれる。古代では、古墳の中の木棺に使われていた貴重な木材。
神社によく植えてある「ナギ」もマキ科の植物。神木として神社に植えられることが多くあるので、幸せを呼ぶ木としてミニチュアが栽培、販売されている。針葉樹でありながら広葉樹のような葉をつける。
昔、我が家にナギの木があった。かなりの巨木だったが、今は実家とともにもうなくなってしまった。個人的にナギの木に愛着がある。ナギが植えてある神社に行き、ナギの種を拾い、種から芽が出て、広葉樹のような葉を広げるのを見てみたい。南国の幸福の木、ドラセナよりナギの方が日本的だろう。幸福の木を育てたい人は、日本ではナギを育てたらどうだろう。秋になって種ができるのを待とう。
「霧」は秋の季語だが、同じ現象(気象)を春には「霞」という。町では霧も霞も見ることがないかもわからない。霧の世界は、この世とあの世の境界のよう。霧が広がる景色は幻想的で人々の心に響いたのだろう。そんな身近な現象だからこそ、古代の日本人は、霧と霞と言葉を使い分けていた。
作者、寂蓮法師(1139~1202)は、鎌倉時代の歌人。叔父、藤原俊成の養子となり、30歳代で出家し、全国を旅した。
以下、「むすめふさほせ」七首の百人一首、一字札を紹介していく。和歌一つ一つに、いろんな意味がこめられている。