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恋する百人一首⑤
鎌倉時代にまとめられた「百人一首」には「恋の歌」が43首あるといわれる。その恋の歌を紹介してきたが、今回が最終回。
43首中35番目の歌から紹介する。(各歌最初の番号は、恋の歌43首の通し番号。後ろの番号は、百人一首100首の通し番号)
35―80 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ
長からむ心も知らず 黒髪の乱れて今朝は ものをこそ思へ 待賢門院堀川
私に対する心が長く続くかわからない。別れたばかりの今朝の私の心は、朝の黒髪のように乱れて思い悩むことだ。
明け方、男性は女性の家を出る。別れたばかりの女性の思い。当時の貴族の女性は長い髪をしていた。この長い髪と同じように長く愛してほしい。昨夜の交わりで乱れた髪の生々しさを表現する。言葉だけで終わらない。心と体。恋にはセックスがついてくる。そしてそれをまた言葉で表現する。
36―82 思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり
思ひわび さても命はあるものを うきにたへぬは涙なりけり 道因法師
つれないあなたを思い続け、絶えてしまうかと思った命はまだあるというのに、辛さに絶えきれず流れてくるのは涙なのだ。
片思いの恋か。一方的な思いか。今ではストーカーになりそうな歌だが、当時も今も、恋はすべてうまくいく訳がなく、忍ぶ恋も多かった。作者は、老齢の坊主なので、若い頃の恋か、あるいは老人の恋か。老人になっても恋をする。恋の歌ではなく、「人生そのもの」を詠ったのかもしれない。
37―85 夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり
夜もすがら もの思ふ頃は明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり 俊恵法師
一晩中、あの人を思い続け、夜がなかなか明けない。光が射し込まない寝室の隙間さえ、つれなく冷たく思える。
夜通しあの人のことを思い続け、寝ようと思っても眠れない。作者は坊主だが、坊主も恋する、老人も恋する。何を見ても恋のことを思ってしまう。若かりし日々を思い出して眠れなくなったのかもしれない。あるいは男性を待つ妻問婚時代の女性目線で、女性の思いとして詠ったのかもしれない。
38―86 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
嘆けとて月やは ものを思はする かこち顔なるわが涙かな 西行法師
「嘆け」と言って、月は物思いをさせるのか。いや、そうではない。月のせいにして、うらめしそうな顔で流れる私の涙よ。
月を見て泣いているのではない。あなたのことで泣いているのに、月のせいにしている。作者は坊主だが、「月前の恋」という題で作った歌。当時は、こういう題を与えてみんなで歌を作ることがあった。実話もあるだろうが、創作もある。月がもの悲しく涙を誘うが、この涙は恋の涙なのだ。
39―88 難波江の葦のかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
難波江の葦のかり寝のひとよゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
難波に生えている葦の一節のように短い一夜をともに過ごしたせいで、澪標ではないけれど、この身をささげて恋を続けなければならないのだろうか。
難波の葦は、節と節の間が短いといわれる。それと同じように短い逢瀬。「かり寝」は、「刈り根」と「仮寝」の懸詞。「ひとよ」は、「一節」と「一夜」。澪標は船の道標。海にずっと立っている。「身をつくす」との懸詞となっている。ダジャレを駆使して、一夜の恋に悩む女性の心を詠っている。
40―89 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王
私の命よ、絶えてしまうならば絶えてしまえ。生き長らえていたら、胸の内に秘める力が弱まって、秘めていられなくなってしまうと困るから。
「玉の緒」は、魂が体とつながっている尾。その尾が切れたら魂が飛び去り、命はなくなる。「忍ぶ恋」を題材にしている。忍んで黙ったままいると苦しくてたまらない。もう死んだほうがましだという激しい恋。恋わずらいで命をなくすという話が多くあるが、みんな恋に苦しんだ。
41―90 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず 殷富門院大輔
あなたに見せたい。雄島の海人の袖さえ、いくら濡れても色は変わらないのに、私の袖は血の涙に濡れて色が変わってしまった。
海の波にも色が変わらない。けれど私の着物の袖は血がつき、色が変わったと暗示する。恋に苦しみ、血の涙を流すほどだと詠う。現実には血の涙は流れないけれど、それほどの激しい思い。
42―92 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし 二条院讃岐
私の袖は、干潮の時でも見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、涙にぬれてかわく間もない。
「石に寄する恋」の題に対して、秘めた恋を詠う。それを沖の石にたとえている。袖が濡れるのは、涙を流すことのたとえ。言葉を駆使して思いを述べる。恋だけではない、どんな言葉も相手に伝わってほしい。言葉は命をもっている。
43―97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに やくや もしほの身もこがれつつ 権中納言定家
いつまでも来ない恋人を待っている。松帆の浦の風がやんだ夕方、その時に焼く藻塩のように、私の身も恋い焦がれながら。
あなたを待っています、というのを、「待つ」と「松帆の浦」のダジャレで、身もこがれるを、焼いている海藻にたとえている。昔は海藻を焼いて塩、藻塩を作っていた。いろんな表現をしながら、相手への思いを言葉で伝えようとしている。作者は、「百人一首」を選んだ藤原定家。自身の歌が43首ある恋の歌の最後となる。そもそも自分の代表歌を百人一首に一つ選ぶときに、恋の歌を選んでいる。定家にとっても恋は大きな問題だった。
恋は盲目。命をかけた恋もある。人の心は機械では判断できない。あっちへふらふら、こっちへふらふら心が動く。互いに気持ちがふらふらしない場合もある。そして思いもしない方向に、自分の心が向くこともある。占いやAIの判断とは違う心の動きが出ることもある。だからおもしろい。人の心は摩訶不思議。
心地よい文章だけを並べるAIと違って、相手はどんな反応をするかわからない。それが人間。我々は、そんな人間の中で生きなければならない。コンピュータの中だけで生活はできない。災害が起きればコンピュータは使えない。戦争が起こればコンピュータは使えない。結局、人間は人間の中でしか生きられない。だから、人は人に恋をする。
男も女も、いつの時代であろうとも、何歳であろうとも、人は、いくつになっても恋する動物。百人一首の恋の歌43首はここで終了。
英語のように I love you. とは直接言わないけれども、言葉を駆使して自分の思いを伝える日本の歌。
現代の恋の歌へと我々の生活は続いていく。
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見出し画像はぱくたそからお借りしました。
「古事記」に曰く、「我が身は成り成りて、成り合わぬところ一所あり」「我が身は成り成りて、成り余れるところ一所あり。この吾が身の成り余れる所を、汝が身の成り合わぬ所に刺しふたぎて、国生み成さんと思おすはいかに」とイザナミ、イザナギが述べたように、足りない所と余った所を合体させようと、神代の昔から言葉を駆使して、男女は互いを求め合う。